船舶隊の遭難訓練

小学1年生の夏、浮き輪に乗って海に浮かんでいたとき、近くのワルガキに沈められ、水を飲んだ恐怖感から、小学校卒業まで泳げなかった。中学1年で泳げない者は赤い帽子をかぶせられ、すごく恥ずかしかった。
そこで発奮して浮く練習をした。浮くためには、いちど沈まねばならない。沈んだとき力をぬくと浮くのだ。足の立つところで浮けるようになると、まもなく顔をあげて進めるようになり、その夏、300メートルの試験に合格。2年生で3000メートル、3年生で1万メートルに合格した。1万メートルだと、沖の海に泳ぎ出て、東の岬と西の岬のあいだを何回か行き来し、5時間ほど泳いでいた。これですっかり水に自信がついた。
なぜか日本陸軍では船舶隊に配属。そこでは輸送船が攻撃され、炎上沈没を想定しての「遭難訓練」があった。日本海軍が香港で拿捕(だほ)した英国の小さな客船の甲板から飛びおりる訓練だ。500トンほどの小船とはいえ、甲板に突き出した板から海を見ると、2階の屋根から飛びおりる感じ。カポックという救命胴衣を首から前後にさげ、着水時にカポックがあごを打たぬよう、ひもは腰でなく股を通してしばる。また着水時に足をそろえると深く沈み、浮上に時間がかかり苦しい。しかし足を広げると股間を打つので、着水と同時に両足をぐっと開けと注意。軍帽、軍服に、編上靴にゲートルを巻いたまま飛び込む。青い水をかきわけ浮きあがり近くの筏(いかだ)に泳ぎつく。ずぶぬれで軍歌を歌って営舎に帰る行進を、近くの住民が驚いて見ていた。
イエス・キリストを信じて生きることは、時に、燃えさかる船の甲板から海へ飛び込むのに似ている。恐ろしいことだ。船舶兵でも泳げぬ兵隊は、救命胴衣をつけているのに、震えて尻ごみをしていた。しかし沈むことをおそれてはならない。大海の浮力を信じるのだ。人生にも遭難がある。そのとき、もがくほど深く沈む。自分の力を抜き、救いの神の力を、ただ「信じる」のでなく、「信じ切る」のだ。「小まかせ」でなく、「大まかせ」するのだ。必ず浮く。まかせ切ったモーセに、神は芦の海を分け、荒野でマナを降らせ、岩から水をあふれさせたもうた。目を凝らせば、いまもわたしたちのまわりに見える光景だ。
「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(出エジプト14・14)