酒枝義旗の弟子

矢内原忠雄先生を、自由が丘のご自宅にたずねたことがある。1948(昭和23)年秋のこと。用件は、その春、赤坂離宮に創設された国立国会図書館の調査局に勤めていたわたしに、参議院高良とみ議員が、満州事変以来のキリスト教迫害調査を頼まれたからだ。(注1)
そのとき、伝道者・政池仁先生が、名刺に紹介を書いてくださった。政池先生は、ご自分の名前の右に「酒枝義旗氏の弟子」と書き、左に「藤尾正人氏を紹介します」と書かれた。わたしは、この古風な『弟子』という文字を見つめ、「酒枝先生の弟子なんだ」と喜んだ。
ふつう日本の教会では、牧師を「先生」とは呼んでも、信徒を「弟子」とは呼ばない。「弟子」は、江戸時代の剣術道場や寺子屋で、師範やお師匠さんを慕って人々が集まり、入門をゆるされて弟子入りした名残りだ。
近代学校は、設立者が校舎を建て教師を集め生徒を募集する。日本の教会はこの方式だ。教団が教会を建て牧師を養成して配置する。牧師の任免・異動は教団が決める。だから日本の無教会は「寺子屋」方式なのだ。内村鑑三をはじめ、「師」がまん中にいて、その師を慕って人々が集まり「入門」し「弟子」になり、時に「破門」される。つまり小さな密着型集団だ。しかし今は「師」が減って平信徒集団化し「弟子」の自覚も少ないようだ。
わたしは「酒枝義旗の弟子」の末席につらなったが、その弟子仲間で、山形の独立学園をたずねたことがある。1961(昭和36)年7月のこと。そこで藤尾は「朝鮮の歴史」。当時、東大にいた鈴木皇は「原子物理」。国立音大の島岡譲は「音楽鑑賞と理論」(そのとき島岡がオルガンを背にして鍵盤をたたいたのに驚く)。新制作協会の日本画家・井崎昭治は「絵画の見方と実技」。気象庁内田英治は「気象学」の話をしたが、圧巻は学習研究社の岩谷清水(早大落研OB)の「落語」だ。なまの落語は初めてという教職員、生徒に村人も大喜び。音楽教師の桝本華子先生は「酒枝先生のお弟子さんのような、多彩な訪問は初めて」と感心。「良い先生につくと良い友人ができる」という言葉はほんとうだ。(注2)
(注1・この「基督教迫害資料」は、新教出版社の「戦時下のキリスト教運動」第2巻巻末に140ページほど収録。1972年)。(注2・「基督教独立学園<100年>年表」2002年 参照)。
「鉄は鉄を研ぐ、そのように人はその友の顔を研ぐ」(箴言27・17、口語訳)