蝉の羽化、信仰の羽化

shirasagikara2010-08-30

酷暑の八月もおわる。庭で蝉が鳴く。しかし東京の蝉の声は弱々しい。数年まえ、隠岐島で鼓膜も破れるばかりの蝉の大合唱を聞いた。なんと樹々の一本一本に数百匹の蝉が群れ重なり鳴いていた。
後鳥羽院隠岐幽囚の火葬塚蝉八百年鳴きやまぬかな」(正人)。
小学生のころ、朝、桜の根元をたずね歩き蝉の幼虫を探した。アリ穴ほどの小穴があるとしめたもの。小指でほじると蝉穴があらわれる。指を入れると、指にしがみついて幼虫が上がってくる。
その蝉の幼虫が羽化する瞬間は神々しいばかり。背中が割れ、黒い目、青い透きとおった羽根があらわれはじめる神秘さは、子ども心にも目を見張らされた。その蝉の幼虫は永く地中にひそむという。しかも羽化したあとのいのちは、あわれなほど短い。
昨年一二月一四日、わたしの六〇年来の友・勝原文夫君が、キリストを信じる信仰告白をしてキリスト信徒にされた。「信仰によって義とされる」ことがわかったのだ。うれしいかぎり。
彼は、神宮球場の学徒出陣も経験した農業経済学徒だ。彼は自宅で、わたしと、彼の長男の嫁の前で「信仰告白」をした。それは神々しいまでの「信仰羽化」の瞬間だった。彼の周りには、若いころから、不思議にクリスチャンがいたのに、彼はむしろ親鸞に心傾いて、キリストには近づかなかった。
蝉は永年地中に潜むが、彼は八六年の永い歳月をへて、やっとキリストの光に羽化したのだ。彼はわたしに葬儀を頼んでいる。羽化したあとのいのちの短いことを承知している。
勝原君は、カトリックの井上洋治神父の「南無アッバ」の考えが好きだ。
「朝目覚め命なりけり南無アッバ」(井上洋治)。「さやけしやひとり祈るも南無アッバ」(勝原文夫)。
「南無」は、帰依する、明け渡すの意味だ。「アッバ」は「お父さん」。彼の墓石には「南無」と彫ってある。「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』」(ヨハネ三・三)