キリストに留まる

「停車」と「駐車」はちがいます。「停車」は、ちょっとそこに車を止めても、またすぐ移動します。「駐車」は、たとえば駐車場に留まりつづけることです。「信じる」と「信じつづける」もちがいます。「信じつづける」のは、「信じる」状態がず〜っとつづくことです。「愛しつづける」のも、「愛している」状態がつづくことです。そこには、感情だけではなく、強い意志がみられます。
エスさまが、「わたしはぶどうの木、あなたたちはつるである。わたしに留まっており、わたしもその人に留まっている人だけが、多くの実を結ぶ」(ヨハネ福音書15・5、塚本虎二訳)といわれたのは、生涯、信じつづけることの大切さを語られたのです。(新共同訳も、その前の口語訳も「つながる」と翻訳し、古い文語訳は「居る」と訳したこの言葉は、塚本訳のように「留まる」が原意です)。
朝日新聞に連載した「遠い崖」などで、政治思想家として著名だった萩原延寿氏は、若いころ、わたしと同じ国立国会図書館調査局の同僚でした。彼は外務課、わたしは文教課で、壁のない隣あわせの席で、侃々諤々(かんかんがくかく)の彼の議論は筒抜けでした。彼がワシントンの米国議会図書館に派遣されたとき、そこの高官に図書館員の資格を質問すると、言下に「Willingness to be anonymous」(無名に留まる意思)と答えたそうです(国立国会図書館調査局「レファレンス」102号)。この「Willingness」は、「喜んでやる」の意味がありますから、国会議員をはじめ、人さまの調査研究や勉強を陰で支えつつ、「縁の下の力持ち」として、「無名に留まるのを喜びとする」のが図書館員の資質ということです。
これはキリストの伝道者も同じです。自分を消して、主キリストさまに仕えるのを喜びとする態度です。日本でも明治以来、数知れない多くの伝道者、牧師が、自分でなく、キリストを指さしつづけられました。彼らは、この世の栄達をすて、みずからキリストに留まりつづけるのを喜びとしただけでなく、まわりの方々に、キリストを信じ、信じつづけ、留まりつづける喜びを勧めたのです。むかしも今も、「ああ幸いだ、生涯キリストに留まる者は!」。
「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」(この「残る」の原意は「留まる」)(ヨハネ15・16)