国会議事堂を歩く

9月27日、久しぶりに国会議事堂の中を歩いた。「議事堂といえば」、わたしが人生のスタートを切った建物。1947年4月、まわりは空爆で瓦礫の中、そびえる議事堂に入り、重厚な参議院議長応接室で面接試験をうけた。5月、配属されたのが参議院調査部だ。貴族院がなくなり第1回国会のころで、原稿用紙も、くず籠も、まだ「貴族院」の印。
そこでの最初の仕事が米国議会図書館の機構や活動の翻訳。コピー機などない時代で、原書をばらし、新参者は6ページほどを分担。衆議院調査部がまとめ、やがて「国会図書館に関する調査資料」として刊行。初仕事が活字になり分担箇所に名前も入りうれしかった。翌1948年春、衆参調査部がいっしょになって赤坂離宮国立国会図書館が創設され、そこの調査局へ移った。ところがその秋、議員相手の調査局だけがまた議事堂に戻った。
ともかく議事堂の中は、中央の塔のてっぺんから地下まで走りまわった。のんきな時代で、職員なら本会議場や、天皇の部屋も歩けたし、参議院正面玄関から出入りした。下宿に風呂がなく議事堂地下浴場の常連。中央の塔へ上る4階の鍵は参議院調査部が保管し、らせん階段でよく登った。65メートルの塔の最上階は6帖くらいの広さ。敗戦後らしく、そこに米兵の落書き。「米兵といえば」、議事堂前庭で米兵小隊が分列行進の練習をしていた時代。ひと影のない議事堂1階の廊下で小銃を持った米兵と鉢合わせしぎょっとした。トイレを探していたのだ。「トイレといえば」、第1回参議院選挙で10名の女性議員が当選したが、院内には女性専用トイレはなかった。
「女性議員といえば」、クエーカーの高良とみ議員は国会祈祷会の生みの親だ。議事堂3階の屋上で一人祈られたという。当時、総理大臣・片山哲も、衆議院議長松岡駒吉も、社会党でクリスチャン。松岡議長は議長席でまず祈ってから開会を宣したと議長秘書から聞いた。「国会祈祷会といえば」、クリスチャン議員、秘書、国会職員が、議員会館の議員事務室に集まり、ときに講師も招き長くつづけられた。金子みつ、河上民雄議員らの名が思い浮かぶ。わたしも退職後2度ばかり講師に招かれた。懐かしく赤じゅうたんをふんだ。むかしは兵隊靴だったと思いながら。
「ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で」(ルカ23・50)