一極集中型のイエスの伝道

これまでわたしは、イエスの伝道は「狭いガリラヤで」と考えてきた。しかし、ほんとうはもっと狭かった。
エスの活動を地域別にみると、「ガリラヤ一帯」と、北の「フェニキアヘルモン山あたり」、それに南の「ユダヤエルサレム」の三ヵ所だ。内、主な伝道地はガリラヤだが、そのガリラヤは、日本の伊豆半島ほどの狭さなのに、その中でも、ナザレからカファルナウムにかけての、わずか40キロ範囲で活動されている。山上の説教も、十二使徒の派遣も、パリサイ派との論争も、病人のいやしも、湖の上を歩く奇跡も、ほとんど、この40キロ範囲だ(塚本虎二「イエス伝対観表」)。東京でいえば、東は総武線の小岩から、西は西武線の小平あたり。関西でいえば、神戸の三宮から梅田をへて生駒あたりだ。
つまり、イエスの伝道は「超狭い」一極集中型の伝道だったことがわかる。狭い所で深く耕し、こまやかな伝道をされたのだ。したしく教えを受けて感動する群衆。叱られながらうなずく弟子たち、手をとっていやされ、狂喜する病人とその家族。それを見つめる人々。慰められ、魂をゆさぶられ、イエスに吸いこまれた。そこから世界に福音があふれたのだ。イエスは狭い一極で伝道されたが、わたしたちもイエス一極に吸いこまれることが大事だ。
先日、日本の二人の化学者がノーベル賞に選ばれた。お二人は、それこそ学問の一極に集中し、吸いこまれて真理を発見された。いま、その結果が薬品や液晶に活用されて、世界を潤している。
エスの伝道は、この一極集中方式なのだ。どんなに大人数でも、一人、またひとりと、イエスに魂を養われ、そこから信仰の花が咲き実が出来るのだ。キリストの教会は、その最初から「家の教会」だった。まず、小さなグループで、福音が肌から肌に伝わる活動がある。それが大きくなっても、原点は小人数だ。小人数集会が無数にできて、大教会になる。大きくなっても、小人数の集団をたえずつくる。これがいい。それはイエス一極に集中することだ。先年、韓国で大教会の礼拝に出たが、そこでは会員を地域ごとに細分し、グループをつくりリーダーを決め、きめ細かく小集会をしているという。
小人数集会が、無数にできること、これがイエスの伝道方式ではないか。パウロはイエスとちがい、3万2000キロも伝道の旅をして福音を伝えたが、彼も方々に「家の教会」をつくった。いまも、一つの教会の中に、たくさん「家庭集会」があること。これが健全な教会だ。
「霊に燃えて、主に仕え、希望をもって喜び」(ローマ12・11)