クリスチャンは「矢」だ

左手のことを「ゆんで」という。「弓手」のことで、弓は左手で握るからだ。「ゆんで」の反対が「めて」だ。右手のことで、馬の手綱(たづな)を右手であやつる「馬手」が起こりだ。そして矢を射るときは、弓の弦(つる)に矢をつがえ、「ゆんで」で弓を押しながら「めて」で弦を力いっぱい引き絞る。だから「弓を引く」というが、「弓を押す」ともいう。いや、両手が同時に、押して引かなければ矢は放てない。
クリスチャンは「矢」だ。キリストから放たれる矢だ。矢が飛ぶためには、弓は押し出されねばならない。どこへ押し出されるのか。「この世」だ。また弦は引き絞られねばならない。どこへ引き絞られるのか。「キリストご自身」へだ。
日曜日、キリストを礼拝するのはそのためだ。礼拝に教会へ集められるのは、キリストへ引きこまれるためだ。礼拝は「キリスト一極に集中」することだ。説教も、聖書講解も、そこへの集中の度合いが深いほど矢は遠くへ飛ぶ。キリストでなく、教会や、牧師・神父や、先生や、信仰仲間に引きこまれては矢は飛ばない。
「ゆんで」を押し出すとき、射手(いて)の目は遠くの的を見つめる。同時に「めて」で弓の弦を満月のように引き絞る。引き絞る力、キリストへの集中が強いほど飛ぶ力は大きい。また「ゆんで」で押し出す力で弓が震えては、矢は的外れに飛ぶ。的をしぼり心を鎮め、「めて」を矢から離すと、ひょうと矢は的に向かって飛ぶ。
使徒パウロは、キリストに引きこまれる度合いが、なみ外れて大きく、キリストを喜ぶ深さが絶大だったので、あんなに遠くローマまで弧を描いて飛べたのだ。
400年前、ポルトガルや、スペインのカトリックの司祭や修道士たちが、地球の反対がわの日本まで、大航海の危険や、日本での迫害を承知の上で、伝道のため渡来した。キリストの福音の矢となって、九州に深く突き刺さり、近畿から江戸、東北まで矢が飛んだ。よほど、祈り深く、キリストへの集中が強かったにちがいない。
いまのクリスチャンも、自分たちが「救われた」と喜んでいるばかりではなく、遠く世界へ放たれるキリストの矢になろう。自分の生活のまわりに突き刺さる矢になりたい。自分以外の、なにがしかに関心をいだく「飛ぶ矢」になるのだ。ありがたいことに、いまはインターネットに乗って、世界中へ矢は飛べるのだ。
「お前の左手から弓を叩き落とし、右手から矢を落とさせる」(エゼキエル39・3)