イエスさまのお顔

わたしは昨年まで六年かけて「十二使徒群像」を彫りました。そのさい使徒十二人それぞれの表情に彫りましたが、イエスさまの顔は、おそれおおくて彫れませんでした。しかし聖書を読めば想像はできます。
いちばん最初に、イエスさまの顔があらわれるのは、ベツレヘムの馬小屋です。それは、神の子の『気高い顔』でした。つぎはエルサレム神殿で、老人たちに祝福された『無邪気な顔』。学者たちと議論する少年イエスの『聡明な顔』があり、やがて成長され、大工イエスの汗まみれの『たくましい顔』が見えてきます。
その活動のはじめ、バプテスマを受けて、水からあがられたときの『決意にみちた顔』になり、荒野での断食という『飢え切ったた顔』もあります。さらに、サタンの三度の誘惑を乗り切られた『絶対信頼の顔』がつらなります。
またさっそうと人々に語りかける『権威にみちた顔』があり、形式主義ファリサイ派には「偽善者たち」と『怒る顔』にもなられます。神殿の腐敗に『憤激する顔』もあれば、聖霊にみたされ『喜びにあふれた顔』があります。
かと思えば、病人に「なおりたいのか」と問いかける『いつくしみ深い顔』があり、ラザロの死に『泣く顔』もあり、金持ちの青年の「ぜんぶ実行」の答えに、にっこり破顔一笑される『笑う顔』さえあります。一〇ムナをもうけたしもべに「よくやった」と『ほめる顔』があれば、いやされた自分を喜び、主を喜ばない九人のハンセン病者を『いぶかる顔』も見られます。
ゲッセマネの園で、血の汗をしたたらせる『苦祷の顔』があり、イエスのことを三度「知らない」と答えたペトロを『悲しむ顔』もあります。ピラトの問いに「それはあなたが言っている」と突き放す『荘厳な顔』もあり、むち打たれ、十字架の上で「エリエリ」と叫ばれ『罪人になられた顔』、そして『死の顔』へとつづくのです。しかし復活の朝の『晴れやかな顔』『神の子の顔』に一変します。
エスさまのお顔の表情は、ほとんどわたしたちとかわりません。喜び、笑い、怒り、悲しむ。しかし、ふざけたり、あわてふためいたりはなさらない。それに備わった威厳、品格がちがうのです。めいめい、そのお顔を想像してみてはいかがでしょう。あなたならどう画きますか。
「イエスの姿がが変わり、顔は太陽のように輝き」(マタイ一七・二)