そうだったのかイエスの福音

ジャーナリストの池上彰の「そうだっ たのか、学べるニュース」が評判です。いま懸案の問題を、快刀乱麻を断つようにみごとにさばき、「深い内容をわかりやすく話す」のです。
エスさまも「深い内容をわかりやすく話す」名人でした。「あなたを伝道者にする」といわずに、「あなたを人間をとる漁師にしよう」といわれます。ペトロら漁師にはピンときます。。「医者がいるのは病人だ。元気者に医者はいるまい。わたしは、おれはだめだなと、自分自身をもてあましている人のために来た」。これもわかりやすい表現です。
それに、身近なことを例にとり、たとえ話で話されます。「種まきの話」「からし種の話」「ぶどう園の労働者」「盛大な晩餐会」「放蕩息子」「ムナでの商売」。農民にも、労働者にも、商人にも、道楽息子にもわかるお話です。
そこへパウロが出てきました。ユダヤの律法で、自分自身をギリギリ縛っていたパウロは、キリストの福音がわかったとき、「そうだったのかイエスの福音」と大喜びしました。「あのパウロ大笑いせしか福音はそうだったのかと卓撃ちしとき」。
パウロは、<下から>、イエスをキリストと信じる信仰で救われるのではない。<上から>、わたしたちを救おうとされる<キリストのまこと>がまずあって、救われたのだとわかったのです
もしイエスをキリストと信じる<信仰で救われる>なら、「わたしには、財産も家族も教養も何もない、しかし<信仰はある>」とすがるはずです。パウロは、そんな人間の信仰でなく、イエス・キリストがわたしたちを救うという<まこと>がまずあって救われたこと、人間の意志や努力でなく、まったく上からの恵みだ、「そうだったのかイエスの福音」と教えられたのです。
そして「ローマ人への手紙」「ガラテヤ人への手紙」を書きました。だれしも「ローマ」三・二二、二五。「ガラテヤ」二・一六、三・二二の、「信じる」を、「キリストの<まこと>」と読みかえれば、その喜びがわかります。「そうだったのかイエスの福音」と。「イエス・キリストのまことによる神の義」(ローマ三・二二、前田護郎訳)