「坂の上の雲」を観る、読む

司馬遼太郎の「坂の上の雲」を、NHKが再放送している。ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」のときもそうだったが、原作を読むのと、映画やテレビで観るのとはちがう。いずれも長い長い小説を短い画面にちぢめるのだから、やむをえないとはいえ、話の筋を追うあまり、原文のもつ面白さ豊かさがカットされすぎる。
だから原作を読むたのしみはまたひとしおだ。それにしても司馬遼太郎の文章力は、どれもずば抜けている。引きつけられ、つぎを読みたくなる。それに「坂の上の雲」でも、秋山兄弟や正岡子規を描きながら、けっこう筆がよこにそれて「そうだったのか」と教えられることが多い。
たとえば、これまでわたしは、岩倉使節団が内閣の主要閣僚・官僚48名を引きつれ、新政府が誕生したばかりの、明治4(1871)11月から明治6(1873)年9月まで1年半もくにを留守にして、米国・欧州をめぐり、新日本の青写真を探したのは、世界に誇る快挙だとおもってきた。
しかし司馬の「坂の上の雲」(第2巻)によれば、ロシアのピョートル大帝が25歳のとき、宮廷政治家250人をひきつれ、西洋文明の見学旅行を敢行していたのだ。自身団長になっただけでなく、オランダの造船所では「君主・ツアーリ」の身分をかくし、大工ピーテルとして職工になり、材木や釘を運び、造船のイロハから進水までを学んでいる。岩倉を上まわるすごい皇帝がいたものだ。それが日本の江戸時代・元禄のころというから驚く。
それにしても、歴史は「ぴったりの人物」を、ぴったりのときに登場させる。「坂の上の雲」では、兄の秋山好古は、日本陸軍の騎兵を創設して世界最強のロシア・コサック騎兵師団を破り、弟の秋山真之は海軍参謀となりロシアのバルチック艦隊を撃滅した。このふたりがいなければ、日露戦争はどうなったかわからないという。
原始キリスト教がよちよち歩きしだしたころ、パウロという、口八丁、手八丁のすごい人物があらわれて、「ローマ人へ」「コリント人へ」「ガラテヤ人へ」と手紙を連発し、右手に福音の剣をかざし、左手にユダヤの律法の杖をにぎって立った。ほかの使徒たちのできることではない。あのとき「ぴったりの人物」だったのだ。
よちよち歩きの明治のキリスト教も、新島譲、植村正久、内村鑑三新渡戸稲造など、ぴったりの人材を、ぴったりのときに輩出している。神さまはすごい。
「神のなされることはみな、その時にかなって美しい」(伝道の書・コヘレトの言葉3・11、口語訳)