いそちゃんに会って

11月26日(金)。日帰りで宮城県の「いそちゃん」に会ってきた。近年はゆくたび、すこしずつ衰えている。あたりまえだ。もう88歳。主人の勝衛さんは8帖の部屋にもちこまれたベッドの上だ。去年はたたみに敷かれたフトンに座って聖書の話を聞いた。もう90歳。昭和14(1939)年に国立療養所・東北新生園ができたとき入ったという。19歳のときだ。「いちばんの古だぬきだね」というと、「そう、古だぬき」とふとんのなかで笑った。つぎの昭和15年にいそちゃんが入った。18だった。
ハンセン病という病気のうえ、戦時中は「おまえら死んだほうが、お国のためだ」とさげすまれ、つらい思いをした。それが椎名ふさという女性信者を中心に、燃えるようなキリスト信仰が患者のなかにわきおこり、国立の施設にめずらしくゆるされている教会で、つぎつぎ信仰がひろがった。しかし日本基督教団の教会にあきたらず、1950年ころ、会員の多くが教会を出て独立の集会を始めた。それが「キリスト教信交会」だ。牧師なしにじぶんたちで集会をもち、教派をとわず応援される牧師、伝道者をうけいれた。
わたしが1965(昭和40)年に初めていそちゃんをたずねたとき、集会は池のほとりの購買組合の建物を借りていた。それがじぶんたちの会堂を造ろうと元気をだした。外部から応援資金もよせられ、会堂の大きな骨格は大工にたのんだが、こまかい仕事や、屋根瓦ふきまでじぶんたちの手でやった。さかんなころは70人から100人がたたみの会堂で礼拝をした。
かつて600名もいた患者は、いま200人を下まわる。ハンセン病の人権闘争のあと、厚生省は見舞金を贈り、多くの元患者は療養所を去った。だから療養所は、もうハンセン病ではなく重度の身体障害者施設になっている。いそちゃんや、勝衛さんのように。わたしが聖書の話を始めると、目も手も足も不自由ないそちゃんは、大きな聖書をたたみに広げ、からだもたたんで天眼鏡で読む。わたしは天眼鏡のさきの聖句を指でなずりながら声を出す。勝衛さんはベッドの上で聞いている。
あとふたり、古い信仰の友をたずねた。南にひらけた広い和室と、大きなベッドがふたつならんだ洋室に、看護師や介護士が手あつく世話をしていた。耳もとでわたしが祈ると、驚くほどの声で「アーメン」と答えた。あす親族が見舞いにくるという。最晩年はしあわせだ。全生活を日本国が責任を負っている。かつての、やや陰惨な患者住宅はあとかたもなく取り払われた。空があかるい。園の池に白鳥が10羽あまり浮かぶ。
「平穏で落ち着いた生活を送る」(第1テモテ2・2)