平たい枝と工兵隊と十字架

shirasagikara2010-12-06

わが家の門のわきに、赤い花が咲くハナミズキがある。それに平たい枝があるのだ。ふつう枝は丸いのにそれ1本の途中が左右にひろがり、裏は塀に沿って平たい(写真)。ハナミズキがその枝をのばした先がわるかった。ちょうどコンクリート塀の角だった。きっと枝も迷ったにちがいない。塀の内がわに曲げようか、上に進もうかと。はじめは枝のさきで固い塀をやわらかくこすりながら考えただろう。しかし太陽は上から照る。やはり上がいい。そして細い枝が塀を越えた。つぎつぎうしろから、枝を押し出す力が加わる。細い枝は押し出されて塀の外へ出た。人が通る。自転車が走る。くるまも見える。それに風も吹く。気持ちいい。
うしろから押しだされて枝はのびる。しかし風が吹くと枝が塀でこすれる。痛い。痛いのをがまんして枝のさきをさらに押し出す。押し出されたさきの枝はいい。しかし固い塀とこすりあっている枝はたまったものではない。風がふくたび痛いのだ。丸く太れない。だから自身くるしみ、平べったくなりながら、枝の栄養をつぎつぎ押し出し、さきにのびた枝を養っている。そしていつしか塀とこすれる部分の枝がたいらになった。
古い人間のわたしは、「ああ、これは工兵隊だな」とおもった。軍隊に工兵という部隊がある。わたしも敗戦まえ敵前上陸支援の船舶工兵隊にいた。むかしは敵前渡河のため川に仮設の橋をかける部隊だ。いま話題の「坂の上の雲」の日清、日露戦争のころは、工兵隊が川にとびこみ、杭を立て舟をならべ、その上に板をおいて歩兵や馬を渡し、ときには工兵の肩で橋板を支え、文字どおり「縁の下の力」になった。自分が痛い目をして味方をさきに送り、名誉はひとに取らせるのだ。
エスさまが「じぶんの十字架をとって、わたしに従え」といわれたのは、「平たい枝」になり、痛いのにたえて養分を友に送れということだ。「工兵隊」になり、味方を助けることだ。自分は橋の下で流れにもまれながら、上をゆく友を支えるのだ。だれよりも、イエスご自身が「平たい枝になられた」。いちばん下で世界を支え、ふみつけられながら、罪人をあがなう救い主となられた。それが主の十字架だ。
「キリストは、神の身分でありながら、、、僕の身分になり、、、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2・6−8)