どんどん変わる、みるみる変わる

「いまの『パソコン』は近くなくなる」と聞いて驚いた。「『携帯電話』や『iPad』が進んだ姿の中に、やがては吸収されるでしょう」。なるほど。パソコンの前は『ワープロ』だった。それが高機能のパソコンが出てきてワープロも吸収し、自分の手元で多彩なプリントまでできるようになった。それまで印刷は印刷所ときまっていた。
その印刷も、60年まえの敗戦後は『ガリ版』だ。蝋引きのうすい原紙に鉄筆でガリガリ字を書き、謄写版で1枚1枚左手で紙をめくり、右手でローラをかけて印刷した。ほどなく『活版印刷』が復活した。鋳造活字が万とならぶ斜めの箱から、植字職人が逆に彫られた活字を、原稿を見ながらすばやく手元の小箱に組んでゆく。この活字印刷は、15世紀のグーテンベルグの発明以来500年も使われた。日本でも明治から100年ちかく主流だった。
それが1070年代、「写植」といわれる『写真植字』がでてきて、鋳造活字がいらなくなった。その写植も電算機が発達すると『電算写植』に変わった。その電算写植もあっというまに『コンピュータ印刷』に変わった。そのころワープロが出てきたが、10年たたぬまにパソコンが主流になった。そのパソコンが『携帯』(モバイル)に変わるという。どんどん変わる。みるみる変わる。日進月歩というが、秒進分歩といわれてすでに久しい。
この目まぐるしく変わる世界のなかに聖書がある。でんとある。変わらずある。その旧約聖書のなかから、箱舟のノアや、族長アブラハムダビデ王、預言者イザヤ、エレミアが登場する。すべて神にいのちをかけた群像。
しかし圧巻はイエス・キリストの登場だ。新約聖書からイエスが、弱々しくも力強くたちあらわれる。いちばん低いところから歩みだす。語りはじめる。やさしい慰めのことばが、うちひしがれた者の心をつつむ。重い真理のことばが聴く者の胸を刺す。ときに叫ぶ。荒々しいことばだ。形式信仰のリーダーをなぎ倒す。ねたまれる。十字架にかけられる。そして復活。いちばん高いお方となられた。2000年変わらない。でんと変わらない。
イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブル13・8)