キリストにつつまれる

キリスト信仰は、わたしたちがキリストをつかむのではありません。すがりつくのでもありません。逆です。キリストが、わたしたちをつかんでくださっている。そのことがわかることです。気づくことです。わたしたちが、キリストにすがりつき、つかんでいるのなら、疲れたとき手を放すでしょう。落ちるでしょう。しかし、子どもが母の胸にすがりつき、そのえりをつかんでいながら、もし眠りこんで手を放しても落ちません。お母さんが子どもの手より強い手で抱いているからです。キリスト信仰はこのことがわかることです。わかるとほっとします。そして「ほっとしなけりゃ福音じゃない」のです。
1927年、30歳で天に召された八木重吉は、詩でこう歌います。

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きりすと
われにありとおもうはやすいが
われみずから
きりすとにありと
ほのかにてもかんずるまでのとおかりしみちよ
きりすとがわたしをだいていてくれる
わたしのあしもとにわたしがある

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「わたしのあしもとにわたしがある」とは、キリストにつつまれ、小さく、小さくなった自分が見えることです。
教会の礼拝も同じです、わたしたちが会堂を掃除し花を飾り牧師は説教を準備し、用意万端整えて、キリストをお迎えするのではありません。逆です。キリストが、十字架のあがないと、復活で、すっかり救いを完了してくださり、「さあ、いらっしゃい」と、2000年まえから待っていられるのです。わたしたちがキリストを招待するのでなく、キリストがわたしたちを招待してくださっているのです。わたしたちは、その招待状をにぎりしめて礼拝するのです。
そのとき「わたしのあしもとにわたしがある」ことがわかります。キリストさまにつつまれている自分が見えます。ほっとします。安心します。喜びがこみあげます。このキリストさまのため、なにかしたい気持ち、いや、なんでもしようという勇気が湧きます。立ち上がります。そして、歩き出すのです。
「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神」(ローマ9・5)