「アベル『と』」「カイン『と』」

むかし沖縄県へ行ったとき、地図をひろげてながめていると、これまでとちがう感覚がうまれた。そうか、沖縄の人は、本州の日本人とはまったくちがう地政感覚で生きてきたのだとわかった。
沖縄から手のとどくところに台湾がある。その南のフィリピンは、はるかかなたの東京より近い。北には朝鮮半島があり、西北は中国大陸だ。琉球列島に身をおいて見まわすと、東京は遠く、九州、台湾、中国、朝鮮、フィリピンは近い。沖縄の人々は、これらまわりの地域と、本土の日本人とは断然ちがう親近感覚で生きてきたのだ。
そこに身をおき、腰をすえてながめることが大事だ。職場に身をおき、家庭に身をおき、学校に身をおく。そこで腰をすえて見まわす。すると別のものが見え出す。
聖書もそうだ。ただ、どんどん読めばいいのではない。聖書に身をおき、腰をすえて読むのだ。それは、すらすら読めない、つっかえる箇所でたちどまり、何だろう、どうしてかと、聖書の中に身を入れ腰をすえて、何度も読みかえすのだ。
たとえば、旧約聖書「創世記」4章に、アベルとカインの兄弟物語がある。人類最初の兄弟殺しのいたましい章だ。なぜ兄のカインは弟アベルを殺したのか。主が自分より弟に注目された妬みだ。新約聖書の「ヘブライ人への手紙」11章には「アベルはカインよりすぐれたいけにえを神に献げ」とある。ではどこがすぐれていたのか。兄のカインは農夫。弟のアベルは羊飼い。農産物より、子羊が「すぐれていた」というのか。ちがう。何をささげたたかではない。どういう態度でささげたかのちがいだ。
「創世記」4章にはこう書かれている。「主はアベルとその献げ物に目を留められた」「カインとその献げ物には目を留められなかった」。大事なことは、つい読み過ごす『と』の一字だ。「アベルの献げ物」ではない。「アベル『と』、その献げ物」。「カイン『と』、その献げ物」だ。つまり主は,、まずカイン、アベルの全存在を見られた。ついで「献げ物」を見られた。アベルは羊群を草原や水際に導くうち、またしても子羊がふえ、自分は何もしないのに、お恵みだなと喜んで、そっと「恥ずかしげに」献げた。カインは「主よ、ごらんください。わたしの粒々辛苦の汗の結晶を」と、「自慢げに」農産物を献げた。このちがいだ。
聖書に身を入れて読むと、たった一字からまったく別の姿が見えだすのだ。
「主はカインに言われた。『お前の弟アベルは、どこにいるのか』。カインは答えた。『知りません。わたしは弟の番人でしょうか』。」(創世記4・9)