小さいことを大きく喜ぶ

家内と近くの阿佐ヶ谷へ出かける。パン屋や、薬屋で買い物をすると、お釣りのコインは家内が受け取る。1円、5円、10円、50円、100円、ときに500円玉があると、にっこり笑う。この小さいものを、大きく喜ぶ態度はいい。
孫たちが、正月お年玉をもらう。彼らはふだん金に縁のない生活をしている。小遣いはぎりぎりで、ほしいものを買えない。だから5000円、1万円という臨時収入はありがたい。小さいものでも、孫にとってはすごく大きく見える。お年玉の袋をそっとあけてにっこり笑う。
小さいことを大きく喜ぶ人は、金持ちにはいない。ぎりぎりの生活をしている人だ。だからイエスは「貧しい人々は幸いだ」と叫んだ(ルカ6・20)。貧乏人は小さいことを大きく喜べるからだ。つまり、ふだん大きなお金と無縁ですごしていると、ちょっとした臨時収入が、すごく大きなものに見える。そしてキリスト信仰の進歩というのは、この「小さなことを大きく喜ぶ能力」の進歩でもある。
けさ目がさめた。立てた。歩けた。息が吸えた。あたりまえのこと。このあたりまえが、ふつうでない神さまの恵みと感じる度合いが大きいほど、その信仰は成長している。食事がおいしい。字が読める。空が広い。その青空が青に見える。鳥が飛ぶ。花が咲く。あたりまえだ。しかし、きょうも味覚、視力、聴力、触覚がある、あたりまえでないありがたさ、と感謝できるのがキリスト信仰の成長のしるしだ。
朝トイレの水が流れる。ありがたいこと。流れなかったらどうなる。むかし日本陸軍で便所の汲み取りをやらされた。あれが必要になる。水道の栓をまわせば水が出る。お湯も出る。すごいことだ。バスや電車が定刻に走る。新幹線が北は青森から南の鹿児島まで2000キロ、たえまなく走っている。宅急便を出すと日本中つぎの日にとどく。日本ではあたりまえとおもうが、世界でこういう国は少ない。わたしの知人が、スイスから郵便小包を出した。その友だちの発展途上国の人も出した。スイスの郵便局員は「日本へは確実に届きます。しかしあなたの国は保障できません」と言った。あたりまえの、日常の日本はすごい日本でもある。あたりまえの、日常が、すべてすごい主の恵みなのだ。この小さいことを大きく喜ぶ習慣をつけよう。右見て感謝。左も感謝。上見て感謝。下見て感謝。
「感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロサイ3・16)