この春、いそがしい神さま

春は神さまもいそがしい。
冬眠しているクマさんや、ヘビやカエルの背中をそっとなぜて「もう春だよ、起きなさい」と声をかけられる。アリんこやミミズ君も神さまの声を聞く。土の中で眠っていた草や木の根っこにも、木々の枝の中で待っていた葉っぱの芽にも「春だよ」と息を吹きかけられる。ごらん。3月の初めからこの彼岸にかけて、葉っぱも、木の芽も、花々も、みな神さまにうながされて、春だと背伸びをして大きく開いた。
それにこの春、神さまは日本にむかっていそがしい。陸奥(みちのく)とよばれた日本の東北地方から北関東に、千年に一度という大きな地震と、地震が引き起こした大津波が押し寄せたからだ。叫びが起った。絶叫だ。「助けて!」。神さまは、神さまを信じている者の祈り、願いだけを聞かれるわけではない。「神なんかいるものか」という人間の祈りもちゃんと聞いいていられる。あの「ヨナ書」の異教の王の祈りが聴かれたように。
だから神さまは、人間の祈りに答えるのにいそがしい。世界中から祈りが届く。とくにこの春、日本からの絶叫が大きい。世界には1000もの言葉があるが、みんな自分の言葉で祈っている。日本の東北の「ずーずー」の「気仙沼弁」でもおわかりになる。しかし、神さまがお聞きになって、すぐ聞いてくださる祈りと、すぐには聞いてくださらない祈りがある。
どうしてか。たとえば「ギャンブルに勝たせてください」という祈りは聞かれない。「戦争に勝ちますように」という戦勝祈願もダメだ。なぜなら戦争は自分は正しく相手は悪い、正しい戦いだとおもって祈っているが、それは「正しい悪いこと」というおかしな形容矛盾の願いになるからだ。罪がないのに、大津波に遭った、日本の東北の人々の叫びは、きっと聞かれる祈りだ。その当座は、なぜすぐに聞いてくださらないかと情けないが、あとになって、いちばんいい形で、きいてくださったことがわかる。だから、あきらめないで祈ったらいい。みこころにかなった祈りは、ぜんぶ聞いてくださるのだから。ときには、自分の願いが聞かれないことが、神さまのみこころだったとわかることもある。
神さまの眼は、この春、日本にいそがしげにそそがれている。
「絶えず祈りなさい」(第1テサロニケ5・17)