愚痴(ぐち)るのは罪

同じ愚痴話を長々と聞かされると、これも伝道者のつとめとおもいながら気は滅入る。話の始めから終わりまでからだの不調を嘆く方がいる。お聞きして、さぞつらいだろうとおもうが、慰めるすきもなく話しつづける。「愚痴」は「言っても仕方のないことをくどくどと嘆くこと」(広辞苑)だが、「ことわざ大辞典」(小学館)には「愚痴は女の常」「年寄りの愚痴」とあり、老女に愚痴が多い。

先日、「小野田寛郎少尉」を、NHK・BSのアンコール2時間テレビで見た。若い方はご存じあるまいが、1945(昭和20)年の日本の敗戦後、29年間もフィリッピンのルパング島に「残置スパイ」を自覚してかくれ棲んだ日本軍将校だ。彼は、23歳から52歳までの、人生の花も実もある時期をむざむざジャングルで失ったのだ。やっと投降して帰国するが日本になじめず、ブラジルへ渡り苦心して大牧場を経営する。ところが、その波乱の人生を振り返って、彼はひとことも愚痴をいわない。逆にジャングルで得た知識をブラジルで生かし、水源を探り当て牛の群れに水を飲ませられたと喜ぶ。

人間だれしも「あのとき、こうしておけば、こうならなかったものを」というくやしさがある。小野田少尉はくやしい過去の「あのとき」をふりかえらない。つまり愚痴は自分のおへそを見て神を見上げないからだ。いや、神を見上げても、なお自分中心に見上げている。それは「どうして神さまは、わたしをこんな目にあわせられるのか」と、<神は冷たい>という見上げかただ。そうではなく、「どうして神さまは、こんなに恵んでくださるるのか」と、<神は愛だ>という見上げかたがある。

国立ハンセン病療養所にいる、わたしの信仰の友、いや先生の「いそちゃん」から、この数十年愚痴を聞いたことが一度もない。彼女は指が曲がり、足はいざっている。目も、口も不自由なのに愚痴はいわない。不自由な目でイエスさまを見ているからだ。「参ったなあ」とおもう。そこには感謝と喜びと信仰の証しがある。愚痴はその逆だ。「いやだなあ」とおもう。愚痴るのは罪だ。神の恵みを自分で消す罪だ。そうはいっても愚痴ぐせのついた人は、一生愚痴は直るまい。しかしその者をも主は救われる。ただ周りに「またか」とへきえきされていることはたしかだ。

「不幸な者は誰か、嘆かわしい者は誰か、いさかいの絶えぬ者は誰か、愚痴を言う者は誰か」(箴言23・29)