キリスト信仰の譲葉

shirasagikara2011-04-18

わが家でいちばんの高木は「譲葉」(ゆずりは)だ。8㍍ほどもある。幹も太く胸高で50㌢。ふつう木々の落葉は秋だが、譲葉は4月のなかばに葉を散らし始める。それがまたみごとな枯葉色(写真)。10日ほどで高い梢から低い枝まで、ぜんぶ色づいた葉は散り終える。そのあとにツンツンと若葉が枝全面に競い立つ。「譲葉」とはよく言った。新芽が出始めると古い親葉は落ちる。親葉は根元に落ちてうず高く積もり根を養う。「譲葉の散るや若葉を見届て」(正)
その庭を見まわせば、父母が残した痕跡が残る。譲られたのだ。石も、灯篭も、蹲(つくばい)も、土地も、家も、家具も。それをまた、わたしは子どもたちに譲る。父から譲られた最大のものはキリスト信仰だ。
わたしの父は、腹膜炎の手術を6回も受け「30歳は越せない」と診断され、それなら生きているうちキリストを伝えようと伝道に励んだ。わが家には壁にタンバリンがいくつも掛かっていた。路傍伝道で人集めに鳴らすのだ。母はわたしを乳母車に乗せ、父の弟妹もサクラにつれてゆかれたという。神社の境内では神職に「営業妨害」と言われた。その父は90歳まで生かされ、キリスト伝道と裏千家茶道に熱中した。「主第一」が標語で、イスラエル旅行の団長のときは、いつも「主キリスト第一旅行団」と名乗った。
わたしと妹は茶道は継がなかったが、キリスト信仰は継いだ。主のあわれみだ。わたしの娘と2人の息子は、祖父の影響もあり、わたしが勤めを辞めて伝道者になったころ、いずれも洗礼を受けた。そのつれあいはクリスチャンの家庭でなかったのに、主に熱心な方が与えられ主の恵みと感謝。わたしの家内のほうは両親とも、明治年代から、主のあわれみでキリスト信仰が代々与えられている。
信仰が親から子へ伝わるのは、もちろん主の恵みだが、親が日常、本気でキリストを信じている姿を子どもに見られることだ。見せるのではない。たとえば親が一人真剣に祈っているのを子が見たときだ。ふだんぐうたらな親が、主に向かい一所懸命やっている。それがわかるのは、親子づれで集会に通うか、自分の家で家庭集会や、聖書輪読をつづけるのがいい。親本人は熱心でも、その姿を子どもが知らないと信仰は伝わりにくい。
わたしの孫は8人。主の祝福で、上2人はアメリカで幼児洗礼。つぎの2人は自分から望んで受洗。あとの4人、どう主が導かれるか楽しみ。86歳のわたしの「譲葉落葉」のときも近づいた。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12・24)