かゆいところに手がとどくことば「良くなりたいか」

歳をとると皮膚のあぶらがぬけるのか、からだがかゆい。腕がかゆいとき、左うでは右手でかく。右うでは左手でかく。気持ちいい。不思議にかいているすぐ隣りがかゆくなる。どんどんかゆさが移る。全身にひろがる。すねもかゆい、両手でかく。かきむしると気が遠くなるほど気持ちいい。背中はかけない。竹製の「孫の手」でかく。上からかく、斜めにかく。下からもかく、手を替えてかく。気持ちいい。「かゆいところに手がとどく」からだ。医者は「かくな」というが、爪があることを神に感謝する。

朝鮮の民話。あるお母さんが7人の男の子を産んだ。そのあと主人がなくなった。苦労して7人の子をりっぱに育てあげた。そのあとのこと。ときどき、その母親が、夜中に家を出るのを長男が気づく。ある夜、長男はさとられぬように母のあとをつけた。母は流れる川をチマ(スカート)をたぐり挙げて渡ってゆく。そのむこう岸の一軒家に母親の姿は消えた。やがて、明かりのついた部屋の中から男の声がする。また母の声もする。長男は耳を疑う。「気持ちいい」という声だ。思い切って、窓の障子に穴を開けて中をのぞいた。なんと母が背中を老人にかいてもらっていた。気持ちよさそうに。
長男は弟たちにこのことを話した。母親も一人の女性であること。そして7人の兄弟が協力して、母が川を渡りやすいように七つの大きな石を流れにすえた。その七つの石が北斗七星になったというお話。
「かゆいところに手がとどく」。もしこれが、ことばとなってわたしたちの心にとどいたら、気が遠くなるほどの心地よさではないか。新約聖書ヨハネ福音書」5章の、イエスさまのベトサダ池のほとりのことばは、まさに「かゆいところに手がとどくことば」であった。
そこに38年も病気で苦しんでいる人がいた。しかも病気で苦しむだけでなく、家族にも不平があった。毎日ベトサダ池へ運んでくれるが、それ以上の介護はしてくれぬ不満。また同じ病人仲間の「あきらめなよ、もう38年にもなるんだ」の冷たいことば。さらに間欠泉でボコッと池の水が動くさい、足の悪い自分を押しのけ、われ先に水に飛び込む非情さ。病気を嘆き、家族を嘆き、病気仲間を恨んでいたとき、イエスが「良くなりたいか」と言われたのだ。「あきらめなよ」でなく「良くなりたいか」は「かゆいところに手がとどくことば」だ。イエスのすごさ。深さ。優しさ。
「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい』」(ヨハネ5・8)