教会を大きくしようとするのはやめましょう

4月から5月にかけて、木々の枝葉や草花がのびます。しかしその成長は音がしません。近くで家を建てているらしく、かんかん音が聞こえます。「建設」はさわがしく、「成長」は静かです。イエスさまも「夜は寝て、朝起きると、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません」(マルコ4章)と言われるとおりです。「目も綾に春いっせいの花の庭」。わが家にもたくさん花が咲きました。それらすべてが静かに咲き、音もなく散りゆきます。
子どもの成長も、日々目をみはるばかりですが、成長そのものは音をたてません。パウロのいうとおり「かしらであるキリストの働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです」(コロサイ2章)。孫たちも、しばらく見ないでいると驚くばかりに背丈が<音もたてず>伸びています。古い記録で、浅田又三郎という巡回伝道者が半年ぶりに帰宅し「わが子の成長ぶりに驚く」という記事をよんで驚いた記憶があります。
キリスト信仰の成長も静かです。のびるほど静かです。ふつう成長は大きくなることですが、キリスト信仰の成長はちがいます。自分が小さくなるのです。キリスト・イエスさまが大きくなるのです。キリスト信仰の成長は、会堂が大きくなることではありません。教会員が多くなることでもありません。教会を大きくしようと騒がしく音をたてる教会もあります。大教会が建った、会員がふえたと感謝するのはいいのですが、会堂や会員の大きさと信仰の成長は同じではありません。
まことのキリスト信仰は、自分や自分たちが、小さく、小さく、小さくなって、キリスト・イエスさまが、大きく、大きく、大きくなられることです。会堂が大きかろうと、小さかろうと、会員が多かろうと、少なかろうと、プロテスタントであろうが、カトリックであろうが、クリスチャンが低くなって、キリスト・イエスさまが大きく輝く集団こそ、ほんとうに成長した教会です。だから「教会を大きく(しよう)とするのはやめましょう」。「キリスト・イエスさまが、大きく輝くエクレシア(教会)を目ざしましょう」。そのとき、あ〜ら不思議、教会は「大きく(なる)」のです。
「救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」(?ペトロ3・18)