米軍の日本無差別爆撃と東日本大災害

1945年の春から夏にかけ、米国は日本本土への無差別爆撃を繰り返した。3月10日の東京大空襲や、8月6日、9日の広島、長崎への原爆投下をふくめ、じつに230の都市を空襲し、軍艦、潜水艦から砲撃。50万人の市民が死んだ。太平洋がわは軒並み爆撃され、沖縄は根こそぎだ。
砲爆撃で500人以上の死者を出した都市は、沖縄を除き46。北から数えると、青森、釜石、仙台、日立、宇都宮、前橋、千葉、東京、川崎、横浜、八王子、甲府、静岡、浜松、豊橋、豊川、名古屋、岐阜、桑名、四日市、津、和歌山、堺、大阪、豊中、神戸、明石、姫路、岡山、呉、広島、岩国、光、徳山。日本海がわは長岡、富山、福井。四国は高松、徳島、今治。九州では北九州、福岡、大牟田佐世保、長崎、鹿児島。つまり、日本の主要都市が壊滅した。
長々と都市の名前を挙げたのは、さる3月11日の東日本大震災とくらべると、このたびの被害は、甚大といっても日本の一地域にすぎず、大部分の日本は無傷で、十分支援する底力を持っていることだ。66年前の戦争では、日本中が焼け野原になった上、海外から数百万人の日本の兵隊や、民間人が帰国し、家も食料もなく、失業者であふれた。
それが、その30年のちには、日本は世界の経済大国の第2位に立った。どうしてか。あふれた失業者が、よく教育され、識字率も世界トップクラスの民度の高い民衆だったからだ。考える力があり、ものを造る力があり、会社を経営する能力がある、勤勉で賢い日本人だったからだ。
2011年3月11日の東日本大震災の被害写真を見ると、86歳のわたしなどは、まざまざと日本敗戦後の、都市、また都市の焼け野が原と二重うつしになる。激甚災害のなか、家を流され、放射能で家を追われ、家族も仕事も奪われた方々の苦衷は無残だが、旧約聖書の「ヨエル書」に「老人は夢を見、若者は幻を見る」(3章)とあるように、わたしには、岩手、宮城、福島、茨城が、見事に復興、整備され、あの瓦礫の山、放射能汚染がうそのようにぬぐわれ、ふたたび希望と自信を取り戻した被災者の姿が見える。それがわたしの夢だ。それも15年さきに実現しそうな夢だ。そのとき101歳になったわたしがそこにいる。主ゆるしたまわば。
「民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った」(ネヘミア8・12)