ながらえばまたこのごろや

「ながらえばまたこのごろやしのばれむ うしとみしよぞいまはこひしき」。小倉百人一首の84番、藤原清輔朝臣(ふじわら・きよすけ あそん)の歌だ。「朝臣」(あそん、あそみ)とは、皇族と血縁関係にある身分のこと。
和歌の意味は、「もし長生きしたら、つらい今がなつかしくおもいだされることだろう。なぜなら、つらかった過去が、いまは恋しいとおもわれるのだから」。つまりこの歌は、将来から現在を見、また現在から過去を見ている。過去、現在、将来を詠んだ日本では珍しい歌だ。自分の目を引き上げて将来の一点にすえ、今の困難をながめ、むかしを振り返る。いやむかしを振り返ることによって、将来から現在を見る目を獲得したのだ。
日本がアメリカと戦争をしているさなか、わたしのまわりで「後世の史家は、かならず今の日本を暗黒時代と呼ぶだろう」という、ひそやかな声を聞いた。そのとき、わたしは「ああそうか、歴史は過去を振りかえるだけではなく、将来から現在を見る目を持つことも大事だ」と感じた。
旧約聖書の「ゼカリヤ書」の予言は、「主の日」「その日」という将来の一点を見すえて、すごいことが起ると、今の民衆に語りつづける。新約聖書でも、イエスは「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(マルコ13・32)と、終末の予言をされる。すべてのキリスト信者の現在の目を、「大解決の日」である「その日」「主の日」という終末の一点にすえ、ふりかえって現在の苦難を喜んで忍ぶべきだと教える。
哲学者・西田幾多郎は「永遠の今なか」と、うまいことをいったが、永遠の中の今に生かされつつ、ずるずるはてしない永遠へとつづくのでなく、終末の「主の日」「その日」が来る。かならず来る。だからキリスト信者は「終末の今なか」に立っている。それは平安貴族の「憂しと見し世ぞ今は恋しき」といった感傷ではなく、「大解決の日」を待つ、希望と喜びと決然とした意志との「今なか」だ。
「主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです」(?テサロニケ6・4)