女房力・マルテンカイギョウ

わたしは文章を書くとかならず妻に見せる。家内は偉そうに「はい、検閲ね」と、老眼鏡をかけなおして文章を読む。誤字や脱字があると、うれしそうに「ここと、ここ」と鉛筆で訂正。「まあ、90点ね」という評価で決まり。家内は検閲官のつもりだが、わたしのほうは、日本の「中の少し下くらいの人でもわかるかどうか」を見ているのだ。「中の下はひどいわ、せめて中の上といってよ」という。家内の「検閲済」の了承は、毎週書くこのブログもそうだし、「聖書ばなし」もぜんぶだ。
むかし酒枝義旗先生の農村伝道のお手伝いをして、埼玉県の熊谷から秩父鉄道に乗って、武川村の農家を毎月たずねて夜10人ほどで集会をした。のち上智大の教授になった鈴木皇さんや、気象庁長官になった内田英治さんともよく泊りがけで連れ立った。そのとき、こういう農民の方々にわかることば、わかる文章が大事だと思い知らされた。たとえば「具体的」などと言わずに「ひらたく言えば」といえばいい。家内の「検閲」は、だれでもわかるかどうかを考えてのことだ。
50年まえから20年間、月刊信仰雑誌の編集をしていたから、毎月夜おそく家内と初校の読みあわせをした。そのころのわたしたち夫婦の声を、小学生だった娘が「マルテンカイギョウ」と覚えていた。原稿についた「。」(まる)「、」(てん)や、文章の行をかえる「改行」のことだ。雑誌の表紙から裏表紙のすみからすみまで、一字一句残さず「マル、テン、カイギョウ」も逃さずに声を張り上げて読んでゆく。ときには家内が半分寝かかっていることもある。疲れたのだろう。また雑誌やブログに載せた文章を、何冊もの著書にまとめたから、家内との初校読み合わせの量はぼう大だ。

わたしが聖書の話に出かけるとき、靴を履き終わると、家内は上から手を伸ばしてわたしの頭にふれ、「よいお話ができますように」とか、むにゃむにゃお祈りをして、ポンとわたしの頭をたたき、「これで大丈夫」とにっこり笑う。まるで「按手礼」。
そのわたしの話だが、よそから30分、60分、90分と講演を頼まれると、話の準備をし、暗記し、鏡の前で発声予行練習をしたあと、家内にかならず聞いてもらう。家内は時計で時間を計り「まあ、いいでしょう」と評価。たしかに「女房力」に支えられている。

「妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木」(詩篇128・3)