「住めば都」「住まば都」

「住めば都」、また「住まば都」という古語がある。「住めば都」は、不便な田舎でも住み慣れると離れがたく、都の心地になるということ。「住まば都」は、同じ住むなら便利で住みよい都がいいという意味だ。いずれにせよ都は憧れの地だ。都には大厦高楼(だいかこうろう)が建ち並び、学問芸術を究めた人材や、詩歌に秀でた貴人も多く、政治・軍事権力の中枢。流行の先端をゆくファッションや歌舞音曲もさかんだ。市場の賑わいも群を抜く。
しかし都から遠く離れても、豊かな森や清い渓谷のほとりに住み、行き交う人も少ない田舎には、かえって篤い人情があり、深くものを考える時と自然、精神の自由と詩情があって、心もからだも癒される。高い山々は高楼のごとくそびえ、澄んだ青空は大厦の大屋根。左右につらなる林は大厦の壁、緑の野はその床。都から遠くても壮大な大厦高楼がある。新鮮な野菜や魚や木の実や花々がまわりにあふれ、小川のせせらぎ、小鳥のさえずりは管弦のしらべ。見方をかえれば、ここぞ都。いや都以上の「虚空に花降る」自然の賑わい。
「住む場所」が「都」に見えるには、いま自分が置かれているその場所が、すばらしい所に見え出す眼力が大事だ。基督教独立学園をつくられた鈴木弼美(すけよし)校長夫人・ひろ先生が、山形県西置賜郡津川村に住まわれた1933(昭和8)年のころ、村人に「山や川の景色のいいところですね」と言うと、「どこが」と村人は驚いたという。同じ風土に住んでも、美を感じる人と感じない人がいる。のち日本画家の井崎昭治さんは、その津川村の風景を、息もつまる思いで写生している。
「住めば都」の心境になるには「平凡のなかに(こりゃすごいと)非凡なものをつかみ出す能力」が必要だ。ちょうどキリスト信仰の成長と似ている。というのは、今置かれているその平凡な場所が、ただならぬ、非凡な恩寵と見え出すことが信仰の成長のしるしだからだ。何事もなく一日が暮れてまた夜が明ける。この「無事を貴し」と見るか、「つまらぬ」と見るか。きょうもまた、目が見え、耳が聞こえ、口で味わえる。それを「あたりまえ」と見過ごすか、すごい恵みとおもうか。ありがたいと思う人は、いま居る場所が「住めば天国」になっている。イエスも言われた「じつに、神の国はあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17・21、口語訳)と。
「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」(ルカ12・31)