気づく、ひらめく、示される

「小さいから大きい」という、形容矛盾の言葉に気づいたのは、わたしが山形県の山奥の基督教独立学園「講師宿泊室」にいたときだ。講演時間は70分と頼まれ、滝川の激しい流れを聞きながら、負けじと声を張り上げ、時間を計って講演のリハーサルをしている最中、「ああそうか、学園は小さいのに大きいのではない、小さいから大きいのだ」と気づいた。さる5月26日の「学園創立63周年記念講演会」前夜のこと。4月に講演を頼まれてから、わたしなりに構想を練り、原稿をつくり、暗記し、自宅の洗面所の鏡の前で1回、妻の前で1回、東北新幹線の車中でも声を出さずに1回、さらに講師宿泊室で最後の仕上げをしている最中、「小さいから大きい」と思いついた。
一所懸命に熱中していると、思いもしない発想がひらめく。科学者や芸術家や詩人のひらめきも、この熱中から生まれる。「ぶらんこに乗ったパウロ」という言葉も、おなじ独立学園の講師宿泊室でうまれた。1996年、基督教独立学園の「第18回・夏の学校」で、「第1コリント」全体の聖書講話をしたが、みっか目の朝「なにか、ひとことで第1コリントをつかみ出せないか」と考えているとき、「そうだ、ブランコだ」とひらめいた。
パウロは最初の1章で十字架を、終わりの16章で復活を強調する。その十字架と復活がブランコの二本の綱。その綱は上で神さまにしっかり結ばれる。下の踏み台は3章の「キリストという土台」。そして9、10章の「自由」を身につけ大きくブランコを漕ぐ。このブランコを漕ぐ姿こそ、パウロの言いたい「第1コリントの手紙」だと示された。「さか落としふらここ漕がなわれも風」(正人)
基督教独立学園は、山林をふくめ学園校地こそ10万坪と大きいが、生徒、教職員、約100名の全寮制学校共同体の小規模学校だ。そしてこの「小さい形」を守りとおしたために、いま「大きな形」になった。時代は「エコロジー」と「少人数教育」。山奥の学園の環境は抜群。そして新校舎を建てても、学年教室は3部屋ですむ。「小」に徹したから、内に力がこもって「大」になったのだ。「小さいのに大きい」は「小」をバカにしている。「小さいから大きい」は「小」を尊敬している。万年少数派の日本のキリスト教も「小さいから大きい」といわれるなら幸いだ。「小」を恥じるな。子どもは「小を恥じず力に満ちる」。「大」を誇るな。大人物は「すべて謙遜」。
「どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり」(マタイ13・32)