主に用いていただいた家

いまの中野区白鷺の家に入ったのは1951年だ。今年の7月でちょうど60年になる。わたしの結婚に備えて父が一軒用意した。この家を買うために旧軽井沢の別荘を処分した。その別荘は、父が洗礼を受けたS.E.ヘーガー先生が、1940年米国へ帰国されるさい、財産処分を一切父にまかせたが別荘だけが売れ残った。父はその別荘をヘーガー先生を喜ばせるために買った。別荘というものはあまり利用価値のないものだが、1949年その別荘で酒枝義旗先生の集会と、国立国会図書館聖書研究会の22名が合同で夏の修養会をした。
その別荘はたしか35万円で売れた。さていまの白鷺の家だが、戦時中この白鷺で戦災にあったわたしの家内一家が、筋向かいの家に間借りしたことがあって、この家が売りに出される情報が届いた。画家の建てた天井の高い建坪50坪の日本家屋は、別荘の売値の35万円だった。だからこの家はヘーガー先生につながる。
以後、この家はずいぶん主に用いていただいた。1952年には、画家の井崎昭治・バイオリン奏者の高角郁子さんが、酒枝先生の司式で結婚式を挙げ、披露宴では雨戸を外しミカン箱の上にT字に並べ紙を張った。その年のクリスマスには、わたしの脚本で「若き内村鑑三」を上演。バックの井崎さんの絵があまりにうまいので、酒枝先生がさわってみたり、シーリー総長に扮した内田英治さんが、頭に歯磨粉をふりかけ洗うのに苦心した。
そのあと酒枝集会の人数がふえ、1954年会場が先生ご自宅からわが家に移った。先生は歩いて4、5分のわが家まで、ときに下駄ばきで聖書を抱えて来られ、十二帖の部屋に聴講者はあふれた。先生は床の間から聖書を話され、廊下や別室も人で埋まり、多いときは90名にもなった。しかし1957年、両親が上京、同居したため酒枝先生の待晨集会は先生宅の隣りに会堂を建てて移られた。
その両親の使い方も激しい。両親は裏千家茶道の教師もしたが、賛美歌を歌い、聖書を読み、祈りをしないと教えない。ときには聖書の話もする。毎週、社中の弟子や、研究会の弟子が午前、午後と、月に100人あまり来られ、その中から洗礼をうけられた方が数十人いる。さらに1989年に、両親、わたしたち夫婦、妹夫婦が同居するため全面改築したが、2階に住んだわたしたちは、毎週日曜の礼拝、週日の集会をし、下では牧師になった妹の息子が毎月集会をしていた。この小さな民家を60年、主はよく用いてくださった。今も。
「集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう」(ヘブル10・25)