皺(しわ)は美しい

暑くなって、半袖のシャツや、半ズボンになると、きょねんまで気づかなかった腕や腿(もも)のしわが、やたらとふえているのに驚く。毎朝やっている腕立て伏せで気づいた。86歳にもなり、筋肉が衰えて皮膚がたるんできたのだ。少し曲げると、まるでさざ波のような細かいしわが出る。伸ばすと消える。おもしろい。
テレビでは、女性が顔のしわを消そうと、熱心に努力をしているが、おのずからなる顔のしわは、歳相応に美しいものだ。化粧品メーカーに踊らされたムダな努力はやめよう。しわがあろうと、目的をもって生きている人の顔は美しい。農民が粒々辛苦した作物を手にした誇らしげな額の深いしわや、魚群を求めて水平線を見つめる日焼けした漁師の顔のしわもいい。しわは醜いものでなく、美しいのだ。その浅く、また深い曲線がいい。
「子を育て吾に仕えて二十年妻の寝貌(ねがお)のしはのよろしき」(藤尾英二郎、1944年)
人間もそうだ。こころにしわひとつなく、のっぺら棒なのは、小泉八雲ではないが、気味がわるい。人間、人生の歩みを重ねるうち、あのこと、このことで、傷つき、こころにしわができる。こころの襞(ひだ)といってもいい。それがその人に深みを与え、人間としての彫りを深くする、
使徒ペトロがそうだ。彼は三度「イエスなんぞ知らねえ」と断言した。その少しまえ「イエスのためなら、命を捨てる」と豪語した舌の根の乾かぬうちだ。彼は、手もなく無抵抗で逮捕され、奇跡も起こさなかったイエスに絶望したのだ。しかし絶望しながらイエスの逮捕のあとをつけた。彼が三回「イエスなんぞ知らねえ」と言いきったとき、鶏が鳴いた。そのとき捕らわれた大祭司の家から、後ろ手に縛られたイエスが出てきて、無言で「ふり向いてペトロを見つめられた」(ルカ22章)。ペトロの胸に深いしわが刻まれたのはこのときだ。ペトロの肖像画は、すべて想像だが、頭は禿げ、額に深いしわがある。そのしわはわたしにはこころのしわ、ひだに見える。しわのない人間はつまらない。ガリラヤの名もなき漁師・ペトロが、世界中で「ピーター」とか「ピョートル」とか呼ばれて愛されるのは、このしわのせいだ。しわは、こころにも、顔にも、からだにも、美しい。
「しみや、しわや、そのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会」(エフェソ5・27)