「副」という悩ましく微妙な地位

わたしたちの周りに「副」のついた肩書きの方が多い。上のほうでは「副議長」「副総理」「副総裁」「副大臣」。さらに「副総監」「副学長」「副社長」「副会長」「副理事長」「副本部長」「副委員長」「副所長」。さらに「副館長」「副院長」「副部長」「副署長」「副隊長」「副官」「副操縦士」。まだある。「副住職」に「副牧師」「副司祭」「副校長」「副園長」「副店長」「副主任」。また「副」の字はつかないが、それにあたるのが「次官」「次長」「准教授」に「助役」「補佐」「代理」。 この「副」は「正」に次ぐ、<添える、付き添う、控え>の意味で、7世紀、日本政府が中国へ派遣した遣唐使にも「正使」と「副使」がいた。
そして、この「副」という地位は悩ましく微妙だ。あくまで「正」に仕えつつ、いざというとき「正」の代理の力がなければならないが、ふだんは出しゃばらずに出番を待つ。しかも去る7月26日の中国高速鉄道事故のように、まず民衆の抗議の矢面に立たされるのは「副」だ。
たとえば国会の衆参副議長、ほとんど顔も見せず、名前も知られない。まさに「控え」だ。しかし議長に事あるとき、議長席で議事進行をさばくが、日本の国会では、副議長から議長になる方はまずいない。議長になる方は初めから議長、副議長になった方はそれまでだ。これがふつうの「副」と違う。ふつうの「副」は、近い将来「正」のポストを約束されながら「控え」に徹する。しかし中には「力もりもりの副」もいれば、「やっとこさの副」もいる。
新約聖書の「使徒言行録」を読むと、歩き始めたエルサレム教会の「正」は、押しも押されもっせぬシモン・ペトロだ。では「副」はだれか。ヨハネだと思う。彼はバプテスマのヨハネがイエスを指して「見よ、神の子羊!」と叫んだとき、ただちにペトロの兄弟アンデレとともに、イエスに従った最初の弟子だ。
エスは「ペトロ、ヤコブヨハネ」の3人だけを、「山上の変貌」や「ゲッセマネの祈り」など大事な場面につれて行き、ご自身の高さと弱さを見せられた。だから「使徒言行録」3章の「美しい門」で、ペトロとヨハネのふたりが、足の不自由な乞食の癒しに立ち会う。しかしヨハネは「副」として出しゃばらない。力を秘めながら3章以後ペトロの陰に身を消してゆく。あっぱれ。
「ペトロはヨハネといっしょに彼をじっと見て『わたしたちを見なさい』と言った」(使徒3・4)