「8・15」から「3・11」へ

きょうは「8・15」。大日本帝国が崩壊した日だ。帝国というのは、たくさんの国々を併合した雄大な国だ。ローマ帝国とか、オスマン帝国大英帝国のように、国々の上に君臨する帝王の国だ。日本は小国のくせに、背伸びをして「大日本帝国」などと自称していたが、「8・15」の敗戦で崩れた。明治以来の海外膨張政策が行きつくところ、アジア・太平洋戦争になり、中国や東南アジア全域を戦争に巻き込み、ものすごい迷惑をかけ、アジアの人々が1000万人も死に、風船がふくらみすぎて「パン!」と破れるように、日本は一気にしぼんだ。敗北した日本は、米国の無差別爆撃で、250の都市が瓦礫になっていた。主要工場は焼失し、家なく、食なく、職もなく、さらに数百万の日本兵や在外日本人が海外から帰還して失業者があふれた。
1945年(昭和20)秋、軍隊から復員したわたしは、無蓋貨物列車にやっと乗り込んで、両親の住む姫路から東京にむかった。屋根のない列車のため、京都・大津間の登り坂トンネルでは、死ぬかと思うほど煙に巻かれた。姫路は白鷺城は残ったものの、あとは焼け野原。神戸あたりは高架のため、焼けはてた神戸市街地を見わたし驚いた。東海道沿線は京都以外どの都市もやられていた。途中下車した横浜では腰がぬけるほど驚いた。街のど真ん中の伊勢崎町の焼け跡に、瓦礫を押しのけ、鉄板を敷きつめた米軍の連絡飛行場が出来ていたことだ。もちろん、東京の戦災もものすごく、高架の大久保駅あたりは見渡す限りの焼け野原。ああ戦争に敗れたという実感がした。
そして、きょう「8・15」から66年。こんどは「3・11」だ。
「8・15」は戦災だったが、「3・11」は巨大地震、巨大津波という天災に、「ふくしま原発」という人災が加わった。もし地震津波だけなら、広島、長崎も抱えた「8・15」以後を目撃した者の目には、「3・11」は、大災害といっても小さく見える。ただ広島、長崎でも経験しなかった、初体験の「放射能」汚染の広がりは質がちがう。
この「ふくしま原発」の後始末は未知数だ。しかし建物などの「ハード」は壊れても、日本人の<知>と<愛>の「ソフト」は健全だ。そこに希望がある。「8・15」以後もそうだった。そして、イエスがわれわれに残した最大のものは「愛のソフト」だ。
「『勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ』と主は言われる。『働け、わたしはお前たちと共にいる』と、万軍の主は言われる」(旧約聖書・ハガイ書2・4)