人が大声で叫ぶとき

さる7月、日本女子サッカーなでしこジャパン」が、ワールドカップ戦で優勝したとき、チーム全員が、これ以上あけられないほど口をあけて絶叫した。歓喜だ。8月、甲子園での全国高校野球選手権で、一戦、一戦、勝った瞬間、チーム全員がベンチから跳びだし、これ以上あけられないほど口をあけて絶叫し、抱き合って喜んだ。人は怒ったときも大声で怒鳴る。東大寺山門の仁王像の一方は、大きく口を左右にひらいた怒鳴り顔だ。喜怒哀楽というが、大口があくのは喜怒のときだ。
聖書からも、この「喜怒」の叫びが聞こえる。最初の怒鳴り声は、旧約聖書「創世記」4章のカインだ。彼は大口をあけて怒鳴った。「じょうだんじゃねえ、おれが汗水たらしてよ、地をはいつくばって耕してよ、粒々辛苦して育てた『地の産物』が、神さまに無視されたんだぞ! おめえの捧げた子羊なんぞ、どこに苦心があるんだ。ただ羊に水を飲ませて、草を食わせただけじゃねえか」。
しかし神さまは、カインや、アベルの捧げ物だけを見られたのだはない。聖書にはこうある。「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」。ここに「アベルと」「カインと」とある。この「と」はアベルの全存在、カインの全存在を意味する。神さまは「何を捧げたか」でなく、「どういう思いで捧げたか」をごらんになる。
エジプト大脱走を図ったモーセイスラエルが、後ろに迫るエジプト戦車軍団と、前にひろがる芦の湖にはさまれ、民衆が絶望のあまり、これ以上あけられないほど口をあけて口々に絶叫する。これにたいしモーセも怒号する。「恐れるな!」「落ちつけ!」「主の救いを見よ!」と。「出エジプト記」14章だ。そして戦車軍団が全滅し、自分たちが救われたとわかって、民衆は神の力に震えるほど驚き静まった。歓喜以上だ。
新約聖書にもある。イエス磔刑(たっけい)のくだりだ。「イエスは大声で叫ばれた。エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ!」。これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味だ。「マルコ福音書」15章。このイエスの絶叫を神が無視されたため、十字架の救いは完成した。「聴かれない祈り」が、大きく聴かれるという証明だ。それから2000年、世界に歓喜が満ちた。
「しかし、イエスはふたたび大声で叫び、息を引き取られた」(マタイ27・50)