忘れる聖書の話、覚えている短い言葉

若いころから、数え切れないほど聖書の話を聴いた。しかし、そのほとんどを覚えていない。あんなに息もつまる思いでノートを取り、聴きほれた酒枝義旗先生の聖書の話でも、ほとんど忘れ、すらすら覚えているのはわずかだ。しかし「神さまは下手をなさらない」とか、「いや喜びです」、「聖なるのんき」といった、短い言葉がなぜか心の奥にしみこんでいる。
木村清松というバプテスト教会の牧師は、酒枝先生に洗礼をした方だが、「聖書はわからなくても、どんどん読んでゆけ。よくわかる、おいしい肉を食べればいい。硬い骨の部分は、神学者という犬がしゃぶるのが大好きだから、彼らにまかせておけ。しかし、あとになれば、骨の味もわかってくる」と、愉快に話されたが、そのときの聖書の話はさっぱり思い出せない。
わたしが洗礼を受けた浅田正吉(まさよし)先生の話も、いいお話だなあと、いつも心打たれたが、内容は思い出せない。ただ「主ご自身」「主のお値打ち」と繰り返された言葉は肝に銘じている。わたしの父も、聖書をしゃべりまくったが、「礼拝に『出る』『出る』『出る』がいい、『出る』『休む』『休む』『出る』はいけません」、といった言葉が記憶に残る。
あんがい人は、聖書の話を聴いて、そのときはうれしく喜んでいても、いつしか内容を忘れるものだ、伝道者のわたくし自身、前週なにを話したか、忘れることさえある。やはり、愉快な話や、短く、鋭い言葉が残るのだ。
わたしは、伝道者になったとき、それまで大切にしていた浅田先生や酒枝先生の聖書講義のノートを全部風呂場で焼いた。先生を離れてひとり立ちしたいと決心したからだ。すると不思議に自分の言葉がつぎつぎ出てきた。「ほっとしなけりゃ福音じゃない」「ぶらんこに乗ったパウロ」「神さまの指紋」「ことこと信者、かたかた信者」「どうぞの祈り、なんとの祈り」「それでいいのだ大丈夫」。わたしの聖書の話は忘れても、この一つでも覚えていただき、福音が思い出されるとありがたい。
「あなたには、わたしがついている」(使徒18・10、口語訳)