あえて悪いものを選ぶ

わたしの家内はくるまも運転しないし、自転車にも乗れない。重いスーパーの買い物は、自転車を走らせるわたしの役目だ。きょうもスーパーでトマトを買うさい、熟し始めた柔らかいものより、皮のしっかりしたのを選んだ。人は物を選ぶとき、とっさに「良いと思うものを選ぶ」。りんごも同じだ。わたしは、だれに教えられたか忘れたが、ひっくり返して底まで赤くなっているのを選ぶ。たしかに、そのりんごは甘い。エデンの園で女が食べた木の実は、「いかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるようにそそのかしていた」とある(創世記3章)。人は自分を引きつけるもの、魅力のあるものに手が伸びる。
さきの民主党の党首選で、小沢派が推した海江田氏でなく、野田氏が選ばれて内閣総理大臣になった。古いタイプの小沢・鳩山の体質に、党内もうんざりしているのだろう。政界でもとっさに「良いもと思うものを選ぶ」のだ。
ところが、聖書の神は「悪いものを選ばれる」。使徒パウロの書いた「コリント第1の手紙」1章にある。
神は「りっぱな人間」でなく、「無学なもの」「無力なもの」「無にひとしいもの」「身分の卑しいもの」「見下げられているもの」を選ばれたという。人はとっさに「良いものを選ぶ」のに、神はとっさに「良くないもの」を選ばれる。
キリストは「罪なき方」であったのに、十字架の上で「罪そのもの」となられて死なれた。それは「罪あるもの」を「罪あるままに」「罪なきものとする」ためであった。言葉を替えれば、「だめなものが」「だめなまま」「だめでなくなる」ということだ。りっぱになったら救ってやろうというのではない。そのままでいいといわれる。
ユダヤ教は「そんな、べらぼうなことがあるか」といってキリスト教に反対する。しかし世界には、りっぱな方より、だめな人間が断然多い。それに、りっぱとみえる方が、自身、弱い自分を自覚している。だから、キリストの救いは、人種を越え、世界にひろまった。
スーパーで、トマトを選びながら、キリストの選びを思った。熟し始めどころか、腐り始めたもの、いや腐り切ったものを、あえて選び、つかみ出してくださったのだ。
「神は、この世で身分の低い者や、軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、<あえて>選ばれたのである」(第1コリント1・28 、口語訳)