背負い切れねえ罪科は・福音口上書

「背負い切れねえ罪科(つみとが)は、その身に重き虎が石」は、「白波五人男」のどんじりの、南郷力丸の台詞(せりふ)だ。むかし「白波五人男」が、唐傘(からかさ)かざして最後の見得を切る、5人のせりふをぜんぶ覚えてしまい、いまだに口から出てくる。「悪事千里というからにゃ、どうで〆(しめ)えは木の空と、覚悟はかねて鴫立沢(しぎたつさわ)、しかし哀りゃ身に知らぬ、念仏嫌えな南郷力丸」とつづく。
この中の「背負い切れねえ罪科は、その身に重き虎が石」が好きだ。「虎が石」は大磯の延台寺にある曽我十郎・虎御前ゆかりの巨石だ。わたしはキリストを信じた若いとき、年をとるにつれ、だんだん罪科から清められて、ましな人間になるだろうと考えていた。しかし、そうではなかった。日々、主の恩寵に感謝しながら、顧みれば、86歳のこの老人も罪のこの身だ。ただ、キリストは、愚痴や、つぶやきの多い、頑固者の、だめさ加減を百も承知の上で、まるごと救ってくださってしまったのだ。だから安心だ。
//知らざあ言って聞かせやしょう//いまを去ること2000年//ユダヤの都エルサレム//その郊外の丘の上//罪なきイエス・キリストが//木の十字架に釘つけられ//罪そのものとなりたまい//「わが神、わが神、なぜわれを」//「捨てたまいしか」と叫んだあと//「一切完了」とつぶやきて//死なれたそのとき神殿の//幕はふたつにぶっちぎれ//罪あるものがそのままに//罪なきものとみなされる//イエスの救いが成就した//これぞ神の救いの福音と//すなおに心底信じれば//背負い切れねえ罪科も//ぜんぶまとめて棒引きされ//完全無罪の身となった//あっりゃうれしやほっとした//ほっとしなけりゃ福音じゃねえ//わたしゃ「ゆるされた罪人」ぞ//日々恩寵を喜びつ//しかもこの身はだめのまま//だめで頑固なそのままで//イエスの愛に包まれる//それでいいのだ大丈夫//
わたしたちは、キリストの救いを受け入れたとき、丸ごと大きく救われた。しかし罪を犯さなくなったわけではない。だから日々主の恩寵に感謝しながら、小さな失敗をくりかえす。イエスが最後の晩餐の席で、弟子の足を洗われたのは「全身は清い・大きくゆるされている」が「日々犯す小さな罪」を顧みるべきことを教えられたまでのこと(ヨハネ13章)。「おどおどするな」と言われたのだ。
「体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」(ヨハネ13・10)