彼岸花と水引草 大輪と小粒の信仰

shirasagikara2011-09-26

ここかしこに咲く彼岸花と水引草が、庭に赤い彩りを添える。彼岸花は最初球根を植えた。それが思いもしないところに飛び散って咲く。水引草は自生の草だ。それが今年はいたるところに顔を出し乱れ咲いた。色はいずれも赤。しかし咲き方も大きさもまるで違う。
彼岸花は一本咲きだ。5本、10本と群れ咲くが、あくまで葉は従えずまっすぐ一本茎を立てる。しかしその花はじつに華麗。曼珠沙華マンジュシャゲ)とも呼ばれ、田の畦(あぜ)を真っ赤に染める。<殉教の血の色吸ひて彼岸花・正人>。水引草は紅白あり、葉の色が違う。庭では赤が優勢だ。ぴんぴん四方に伸ばした細茎に、花とも呼べぬ米粒の半分もない赤いつぶの小花を並べる。<殉教の血のしたたりや水引草>
花の大きさ、咲き方がさまざまなように、キリスト信仰のあらわれ方もさまざまだ。彼岸花のように、すっくとひとり立ちして大きな花を咲かす方もいれば、みんなと並んで小花をつける方もいる。
キリストに立てられた十二使徒は、彼岸花のようにすっくと立った華麗な花だ。しかし肝心のキリスト昇天後の伝道をしるした「使徒言行録」では、ペトロを除き十二使徒の姿はほぼ消える。わたしはかつて、初代キリスト教会は「殉教の血が信仰の花を咲かせた」ことを知って、殉教者はすごいと思った。
しかし「使徒言行録」の最後は、パウロのローマ入りで終わる。著者ルカはそのあと、パウロやペトロがローマで殉教の死をとげたことを百も承知のうえで、その殉教を1行もしるさないのに感動する。殉教というすごいことよりも、キリストの十字架の救い、復活が断然巨大なのだ。つまり「人間が何をしたか」でなく「キリストが何をされたか」が大事なのだ。だからペトロやパウロの殉教も無視した。
使徒言行録」は、最初は「彼岸花のような」ペトロ、ついでパウロを軸にしながらも、「水引草のような」無数の小粒のクリスチャンが、福音を喜び懸命に生きた姿を描く。パウロがローマの教会に書いた手紙の最後に「よろしく」と名がしるされた、14名の奴隷をふくむ水引草のような信徒たちだ。
「アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく」(ローマ16・14)