「努力して読む本」「楽しく読む本」

読書の秋というが、わたしの場合「努力して読んだ本」と「楽しく読んだ本」がある。名作だから、教養のためと、努力して読んだ本は、読破したという記憶は残るが内容は希薄だ。
たとえば、ダンテの「神曲」三篇も努力して読んだから、教会の枢機卿や聖職者が地獄に堕ちているのに驚いたことは覚えているが、ほぼ忘れた。トルストイの「戦争と平和」も、意気込んで読んだためか、ほとんど忘れ、ナポレオンに勝ったロシアの将軍・クトゥゾフが、無能で、何もしなかったことがよかったというくだりだけ覚えてる。
「楽しく読んだ本」は、漱石の「坊ちゃん」に始まりたくさんあるが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」はその筆頭だ。読み切るのが惜しいほどで、日清、日露の激戦地や、バルチック艦隊に、まるで自分もそこにいるような臨場感がいまも鮮明に残る。
内容までよく覚えているのは、二度、三度と、引きつけられて読んだ本だ。それに若いとき読んだものを、年取って読み返すと全然深みがちがう。漱石の「猫」「三四郎」などの作品や、ゲーテの「ファウスト」がそうだ。わけても「聖書」は何度読んでも常に新鮮。
しかし、読んだ本をぜんぶ覚えていたらたいへんだ。忘れられるのも恵みだ。
フィリッピンで戦死したわたしの叔父・藤尾彰を、祖母・きぬは敗戦後も待ちつづけたが、ある日、戦友がたずねてこられ、300名の中隊で6名生き残ったことを知らされてから「このごろは彰を忘れるようになった」とつぶやいていた。忘れられるのも恵みなのだ。
もっと歳をとって、聖書すら忘れる日が来るかもしれない。白洋舎を創られた五十嵐健治翁の病床を、作家の三浦綾子さんがたずねたさい、「なにもかも忘れましたが、キリスト様だけは忘れません」と言われたという。それでいいのだ。いや、わたしたちがキリスト様を忘れても、キリスト様は、わたしたちを忘れたまわない。だからありがたいのだ。
「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。、、、たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」(イザヤ49・15)