「在家キリスト信徒」の増加

「在家キリスト信徒」が増加しているように思います。洗礼を受け一度は教会に属しながら、「籍」は残したまま、やむなく教会を離れて信仰生活を送っている方々です。わたしのまわりにも、あちこちいられますし、かくいう86歳のわたしもその一人。歳を取ったり、病気や仕事や家庭の事情で教会に行けなくなった方々とか、牧師や教会の信徒とうまくゆかず、また転居して近くに通える教会がない方々です。しかし、たとい教会から離れていても、主に対して心が冷えているとはかぎりません。決して背教者ではありません。この方々は「在家キリスト信徒」と考えればいいのです。「在家信徒」は「教会への熱心」は出来かねますが、「キリストへの熱心」は、かえって強くされることがあります。なぜなら牧師なしに自立した信仰生活をつづけているからです。
ほんらいキリストの教会は「在家信徒」から始まりました。原始教会では迫害のなか自分の家でキリストを信じて生きる。結婚して家族ができる。家族で集まる。あちこちの家族が集合する。そして「家の教会」が生まれたのです。だから「在家信徒」は教会の基本形です。既成教会はこれら「在家信徒」と、どう付き合うか考えるといいと思います。むかしは無教会がその受け皿になりましたが、いまの無教会にその力があるかどうか。
イエス・キリストの救いは、わたしたちが教会や集会に属しているか否か、教会の礼拝に出席するかどうか、関係ありません。信仰熱心か不熱心か、聖書知識が深いか否かも、関係ありません。わたしたちの熱心でなく、キリストさまの熱心が、ご自身を信じる者を救い、固くご自身のものとして離されないからです。わたしたちが、キリストをつかんでいるのではありません。キリストさまがわたしたちをつかんでくださっているのです。「教会信徒」も「在家信徒」も、救いは同格です。
「アクラとプリスカとその家の教会から、主にあって心からよろしく」(1コリント16・19、口語訳)