なぜキリスト教には、こんなに教派が

「なぜキリスト教には、こんなに教派があるのですか」とは、よく聞かれる、ごもっともな疑問だ。「キリスト教」という一つの教会であれば、どんなにすっきりすることか。しかし、カトリック教会も一枚岩のように一つに見えるが、その中の修道会の数は「教皇さまもご存じあるまい」というほど多い。プロテスタンにいたっては万という教派がある。
ではなぜ、こんなに修道会や教派ができたのか。人間が堕落するからだ。信仰深げな人々でもときに失敗する。同様に一つの教会でも長年伝統を守りつづけていると、いつしか信仰にカビが生えがちだ。すると教会革新運動が起る。一つだった原始キリスト教会が、東のビザンチンギリシア・ロシア)教会と、西のローマ・カトリック教会にわかれ、さらにカトリックにプロテスト(反対・抗議)して、ルーテルが立ち上がりプロテスタントがうまれた。そのルーテルにカルヴァンが立ち、以後無数の教派が生まれた。すべて大本のキリストの教え、聖書の原点、純粋な信仰に帰ろうという運動が教派を生んだのだ。逆にいえば、教会内で新しい革新運動が生まれなくなったとき、その教会は衰える。一見安泰に見えても淀んだ教会は力を失うからだ。
樹々をながめる。すべて高さ、太さ、枝ぶり、葉の色、形、落葉、常緑、さまざまで美しい。日本の敗戦後、ブナやコナラの混合林を切り倒し、育ちが早い杉を植え全国に杉山が出来た。しかし杉はブナのように保水力はなく根が浅く洪水で立ったまま流された。樹々がさまざまに並び立って山は強く美しいのだ。
キリストの教会も、それぞれの姿、形をもつのがいい。ただ「キリストを第一とすること」「聖書を中心にすえること」。このふたつが守られれば、いろんな形があっていい。むかしトルコを旅したとき、日本人が「あの花の名は」「この木なんの木」としつこく聞くので、ガイドのウグルさんが一喝した。「花は花です。木は木です!」。そうだ。教派はさまざまでも「キリスト教はキリストです!」。
「 目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(第1コリント12・21)