あいまいなイエス

いつもはきっぱりと「わたしは復活であり、いのちである」とか、「忠実なしもべ、よくやった」と言い切られるイエスが、十字架を前にして、あいまいな言葉を3度吐かれる。弟子のユダ、大祭司、そして総督ピラトの前だ。この3人は、イエスを十字架に追いやった張本人。
最後の晩餐で「君たちのひとりがわたしを裏切ろうとしている」とイエスが言われると、ユダは「まさか、わたしでは」という。イエスは「そうだ」と言わず「それはあなたが言ったこと」。また大祭司が宗教裁判で「お前は、神の子・メシアか」と聞いても、ピラトが政治裁判で「お前がユダヤ人の王か」とたずねても、「それは、あなたが言っていること」との答え。(新共同訳・マタイ26、27章)
「そうだ」と断定しないことは、質問者自身に問い返すことだ。数学の教師がいて、生徒が「先生、答えはこれでいいですか」と聞き、それが正解とわかりながら「そうだ」と言わず、「どうかな」というと、生徒自身動揺してもう1度調べ直す。ユダ「まさか、わたしでは」。そうだと知りながら「どうかな」。大祭司「君はメシアか」、その通りなのに「どうかな」。ピラト「ユダヤ人の王か」、そうだと言わずに「どうかな」。このあいまいな答えは逆に相手に問い返し動揺を与える。「君はどう思うかね」と。
どの道にしろ、奥義をきわめ充実して立っている方を前にすると、わたしたちはその人物に圧倒される。十字架の死へ、しかと顔を向け、無冠無飾で充実して立つイエスに3人は圧倒される。ユダは「主はご存じだ」と、よろめきながら夜の闇に消え、大祭司は「やはりメシアか」とうろたえ、ピラトは「たしかにユダヤの王だ」と釈放に動くが民衆の声に圧されて果たせない。人間の罪の深さよ。「それは君が言ったこと」「どうかね」「君の考えは」と、3人の心の中をのぞき込まれるイエス。あいまいなイエスは、やはりすごいイエスだ。しかし本当のところ、なぜあいまいだったかは、わたしにはわからない。
「総督がイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは『それは、あなたが言っていること』」(マタイ27・11)