エン・ゲディ洞窟のサウルとダビデ

旧約聖書「サムエル記上」には、サウル王が、その臣下ダビデの名声を妬んだ、息づまる「追いつ追われつ」の争いがしるされる。なかでも手に汗をにぎらせるのが、24章の、死海のほとりエン・ゲディの洞窟の場面だ。洞窟にダビデとその部下が潜んでいるとは知らず、サウル王は「用を足すために入った」(4節)。人間、食べることと、排泄することは常のこと。入力があれば出力がある。
いまの日本人は自分の排泄物を目にすることは少ない。日本中、水洗便器が洗い流してくれるからだ。しかし、わずか数十年まえ、東京でも汲み取り自動車が走りまわっていた。60年まえには、東京・中野区白鷺のわが家でも、農家の方が汲み取りに来た。しかし非常の場合はサウル王のように野外で「用を足す」。
あなたは、野外で「用を足した」ことがあるか。それはやりにくいものだ。日本陸軍にいたとき、野営するとまず、近くに飯ごうめしを炊くための細長い穴と、離れた場所に用をたすための穴を掘る。入力と出力の準備だ。しかし行軍中、急に便意を催したさいは、道ばたの木の根や、石に足を置いて用を足す。つまり地面に尻が近いと用を足せない。
サウル王が、洞窟で「用を足した」にはわけがある。洞窟は人から身を隠せるし、その洞窟は入り口が高く中へくだる坂だった。サウル王が着物のすそを巻き、尻を出して「用をたす」。すると排泄物は坂を落ちる。自然の穴の用をしてくれた。ところが、その奥に、ダビデとその部下が息を殺して潜んでいた。奥は暗い。入り口から奥は見えない。しかし奥の闇にいるダビデたちからは、サウル王の挙動は影絵さながら、手にとるようにわかった。
ダビデの部下は「いまこそサウル王を殺す絶好のチャンス」と迫る。しかしダビデは「主が油注がれた方を殺せない」と拒み、サウルに近づき、その上着のすそを切り取った。サウルが洞窟から出ると、ダビデも出て「なぜ、うわさを信じてわたしを追うのか。いま洞窟で、あなたを殺す機会があったが、わたしはしなかった」と、証拠の上着の切れ端を見せた。サウル王は「お前はわたしより正しい」と泣く名場面だ。聖書は面白い。
「お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した」(サムエル上24・18)