鈴蘭の赤い実、老人の小さい実

shirasagikara2011-12-05

「鈴蘭や赤き実一本群れ枯葉」。庭の鈴蘭がいま冬枯れの群れ葉となった。その枯葉のあちこちに、赤い実のくきが凜として立つ。春に白い花を咲かせた鈴蘭の最後の輝きだ。春、鈴蘭の2枚の葉が伸びると、うしろに花くきが1本立つ。それがところどころ実になる。老年に、このような小さい実を結べる人はさいわいだ(写真)。庭のすみの一角には、鳥が運んだ種からひろがった吉祥草が、細長い葉を密生させ、この寒い師走に花を咲かせる。しかも、ほとんど人目につかない葉隠れだ。葉をかきわけると、紫の短い数百のくきのそれぞれに、20ばかり白い小花をつけ黄色い花弁を伸ばす。老年に、目立たない葉隠れの小さい花を咲かせる人はさいわいだ。
もうすぐ87歳になるわたしの祝福は、「主の愛に守られていること」。「家族にかこまれていること」。「思い出深い樹々と、四季おりおりの花をめでられること」。「手慣れた聖書や道具などが手近かにあること」。しかし、これらは受身だ。わたしはもうひとつ、父にならって書画詩歌をよくする「文人墨客」を目指したい。
わたしの父は、若いときから、驚くほど数々の水墨画を描いた。あきれるほどたくさん短歌を作った。それは人さまに見せるためではなく、自分の楽しみのためだ。わたしも、そのひそみにならい、毎日、墨を磨って筆を執り、下手はへたなりに水彩を描き、短歌、俳句をつくりたい。また伝道者だから伝道の志はある。しかし老人、あちこち走りまわれない。だからこのブログ。毎週100人ほどが読んでくださる。パソコンのおかげで、居ながら100人に話せるのはありがたい。つまり、外から受けることと、内から吐き出すこと。それがなんとか出来ること、これぞ主の祝福。
塀ぎわの柿が、真っ赤な葉を、最後の力をふり絞って道や庭にふりまく。ハナミズキの葉はもうない。葉と同様、老人が散って、まわりがすっきりする。いいことだ。「散らすべき枯葉も尽きて庭冴ゆる」。
「人の一歩、一歩を定めるのは主である」(箴言20・24)