八重山諸島の大津波

12月11日で東日本大震災から9ヵ月。しかし日本の江戸中期、南の琉球王国八重山諸島を、東日本大津波どころではない巨大津波が襲ったことは、あまり知られていない。今から30年あまり前、沖縄の石垣島へ行った時、そこの日本基督教団の教会で日曜説教を頼まれ、午後、牧師に島内をくるまで案内されていると「津波石」に出会った。津波で海底から運ばれた高さ8メートルの巨岩が、海岸から4キロも押し上げられていた。
それは1771年(明和8)4月24日午前8時ころ起った。まず大地震があり、さんご礁の海は水平線までカラカラになるほど潮が引いた。ついで黒雲のような大波が立ち上がり、島の東と南の海岸を三度襲った。津波は山の85メートルの高さまで駆け上り、その線から下の植物はみな枯れた。死者・行方不明は9313人。島の人口は半減し、塩害で農作物は育たず、飢饉、疫病で人口はさらに減少。津波まえの数にもどるのに140年もかかったという。
牧師の話では、逃げ出すとき、ひとりの薩摩の武士が、杭につながれたままの馬て駆け出し、ぐるぐる回りしているうちに、津波は高台をさけて両脇を通り抜けた。一方、足に自信の若者が、一目散に山へ駆けたが津波にのまれた。薩摩のマヌケ者が助かり、島の利口者が死んだという話。
日本の南西諸島は台風の通り道。くり返し撃たれていると撃たれ強くなる。その上こんな大津波に襲われてもいた。琉球王国は250年間薩摩藩に搾取され、明治になると沖縄県の設立に清国が抗議。宮古、石垣、西表を清国に割譲しようとしたが、清国が反対するうち日清戦争でうやむやに。また大日本帝国の敗戦後、奄美群島琉球列島を切り離した「トカゲのしっぽ切り」で日本本土は国際社会に復帰できた。
つまり、沖縄は自然災害だけでなく、薩摩藩や明治・昭和政府によっても撃たれつづけ、今また平成政府高官の「普天間基地問題」の妄言。琉球人が強くなるはずだ。しかし、その痛みにも限度がある。その痛みを分かち合えぬ自分を恥じる。日本人を恥じる。
「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ 5・4)