キリストの「まこと」で救われる

聖書をどう解釈し、どう翻訳するかは大事だ。大切な意味がまるで違ってしまう。たとえば「ローマ人への手紙」3章22節。直訳すれば「キリストの信仰」。パウロは同じ使い方を「ガラテヤ人への手紙」3章16節でも2回やっている。
ところが、信仰の対象である「キリストの信仰」ではおかしいので、たいていの邦訳聖書は「キリストを信じることにより」とか、「キリストへの信仰により」としている。これだとキリストを信仰することで「義とされる」=「無罪になる」ことになる。つまり、「信仰」が大事になる。「キリストを信じる信仰」と言いながら、ともすれば、キリストより信仰が強調される。「信仰一本槍」という言葉も出てくる。「わたしには、ほこるべきものは、何もない。財産もない、学問もない。家族もない。しかし、信仰だけはある」と、歎異抄の「本願ぼこり」のように、「信仰誇り」にならないか。
しかしパウロは、そんなことを言いたかったわけではない。「キリストの信仰」とパウロが書いたとき、パウロは「キリストのまこと」と言いたかったのだ。「キリスト」と「信仰」がくっついて書かれた場合、「信仰」は「まこと」と翻訳するのだ。パウロは、救われるのは、自分が何をしたかではない。すべてキリストの十字架のあがないのゆえと教えられほっとした。それが「キリストのまこと」だ。「キリストを信じる<信仰>」ではない。
「キリストのまこと」がまずあって救いが成就する。つぎに「キリストのまことを信じる信仰」がつづく。この順序だ。前田護郎訳「新約聖書」のローマ人への手紙 3章22節では、「イエス・キリストのまことによる神の義」とある。(中央公論社 1968)。最近いただいた、小川修「パウロ書簡講義録 1」も、「イエス・キリストという(神の)<まこと>から、すべて(それを)信受する人へと(与えられる)神の義」とある。(()内は著者の説明・リトン社 2011)。
パウロは「誇る者は主を誇れ」(?コリント10・17)とか、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(ガラテヤ6・14)と言って、どこまでもイエス・キリストを第一とした。自分の信仰を誇ってはならない。「誇る者は主を誇れ」。
「神はキリストを宥め(なだめ)の供えものとして差し出されました。これは血を流すまでの彼の<まこと>によるものです」(ローマ 3・25 前田護郎訳)