上に投げる。神さまがこれから、どうされるか楽しみ

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」と、ペトロが言ったとき、彼は「任せられなかった自分」を恥じていた(第1ペトロ5・7)。
あのガリラヤの湖で、主が逆風のなか、水しぶきを浴びて現れたもうと、十二弟子は恐怖の叫び声をあげた。すると「安心するんだ、わたしだ、恐れるな」と主の声が響く。その時だ。ペトロが「主よ、もし、あなたでしたら、水の上を、あなたのもとへ行けるよう、わたしに命じてください」とお願いする。しかし、この「もし」(アイ)がよくなかった。半分信じ、半分信じていない。こんなものは信仰ではない。だから彼は水に沈んだ(マタイ14章)。
前の日本聖書協会の口語訳では「主よ、あなたでしたか」と訳された。これだと「でしたか」と確認している。半信半疑の新共同訳が正しい。文語訳も「もし汝ならば」だ。
さてペトロが「お任せ」と言った言葉は、「上に」(エピ)「投げる」(リプトオ)が原意だ。だから「任せる」とは「放り投げる」ことだ。思い煩いがあれば、それを主さまのほうへ放り投げるのだ。
わたしは、あちこち遣わされて聖書やキリスト教のお話をするさい、自信のない自分の心をいつも主に放り投げる。「主よ、へたな話をすると、あなたの名折れですぜ。ちゃんと話せるように力を与えてください。聖霊がわたしを踏みにじり、あなたの御名があがめられますように」と祈る。責任は主イエスさまに取っていただく。腹をくくって開き直るのが常。
ドイツの宣教師エッケルさんは、敗戦国日本で、敗戦国ドイツから援助が来ないなか、道路工夫をして家族を支えた。そのエッケルさんに早稲田のドイツ語の講師を紹介された酒枝義旗先生が、来宅したエッケルさんに「たいへんでしょう」と話されると、「いや、神さまがこれから、どうされるか楽しみです」と答えたという。1949年正月2日、エッケルさん一家が帰られるのと、すれ違いに入った先生の書斎で、感嘆さめやらぬ先生の言葉を聞いた。まさに上に投げている。
「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます』こう言って息を引き取られた」(ルカ23・46)