年賀状、年間状、E賀状

1月15日は「お年玉つき年賀葉書」の当選発表日。しかし、わが家では年賀状をやめてすでに久しい。もう30年にはなる。毎年いただく賀状がふえ、超忙しい師走に500枚も宛名を書いていられなかった。それに毎月「はがき通信」を出していて、100枚あまり、おもな友人には送っていたから、「年賀状」ならぬ「年間状」を12枚送っているので、やめてもいいだろうという思いもあった。しかし年賀状と年間状は、やはり意味がちがう。大晦日と元日と、何の変わりのない24時間。それが大晦日といい、元日といえば、まったく気持ちが違うから不思議だ。人間、区切りをつけることの大事を思う。
聖書は「夕あり朝あり」と1日を区切り、「第7の日を安息日」として週を区切った。また「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」と、月と年を区切っている。年に1度の大掃除とか、1年1回のご馳走準備も、年を限っての元気のゆえだ。
年賀状を出すのをやめても、毎年賀状をいただく。目上の方から届くと、あわてて元日に返事を出した。それが近年、こちらが歳を取って目上のお年寄りも減った。賀状を出さないくせに、いただいた賀状の当選番号は調べる。たいていはビリの年賀切手だが、これまで2等に2度当たった。ひとつは「ポラロイド写真機」、もうひとつは「日光製三段引き出し」。これは重宝している。
昨年12月、流山市で開催された、わが友・井崎昭治さんの、生涯にわたる画業の展覧会を観た。その一隅に彼が毎年出した年賀状が、ひっそりと展示されていた。それは正月になってから、彼がその年の干支を彫ったものだ。本来、賀状はこのように正月に出すもの。今年驚いたのは「E賀状」だ。元日にEメールで配信。これは「いい=E」。
今年も年賀状を出さないのに、まだ100枚も送ってくださる。まるで主キリストさまのお恵みを上からいただくようだ。その上なにか当たれば、それこそあふれる恵み。
「主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる」(申命記11・12)