むき出しのイエスに迫る「ケセン語訳 イエスの言葉」

shirasagikara2012-02-06

本書の著者・山浦玄嗣(やまうら はるつぐ)は篤学の学究で、元東北大助教授の町医者。しかもカトリックカトリック信徒は、聖職者を除き聖書原典に迫る気迫に乏しいとの迷妄を砕かれました。
著者には、すでに「ケセン語入門」「ケセン語大辞典」「ケセン語新約聖書福音書」などがありますが、こんどの「イエスの言葉 ケセン語訳」(文藝春秋 2011年12月刊 文春新書839)は、驚くほどわかりやすく、中身の深い、イエスの生身の姿をむき出す出色の聖書解説です。「ケセン語」とは著者が住む岩手県気仙(大船渡)地方の方言のこと。
本書は、イエスの生涯の言葉を38の項目にわけ、ケセン語訳聖句を2、3行掲げたあと、5ページの見事な解説をつけます。それが面白いので難解なケセン語も起き上がるのです。
マタイ5章の「山上の説教・八つの幸い」も、ケセン語ではこうなります。
「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ァ幸せだ。神さまのふとゴろに抱がさんのァその人達(ひだぢ)だ」。これまで「心の貧しい人」と訳された「心」の原文(プネウマ)は「風・息・霊」のことですから、著者は「鼻息の弱い人」ととらえたのです。うまい。
「野辺のおグりに泣いでる人ァ幸せだ。その人達(ひだぢ)ァ慰めらイる」。これは「悲しむ人」。昨年の東日本大震災で、著者自身の診療所も床上浸水の被害をうけながら、3日後には診療を再開し、津波に流された「悲しむ人」とともに生きていられるのです。
「意気地(ずグ)なしの甲斐性(けァしょ)なしァ幸せだ。その人達(ひだぢ)ァ神さまの跡式(あどしギ・遺産)ィ受ける」。これは「柔和な人」。名訳です。
日本の地方語で聖書が語られるのは、福音土着のしるしです。「賛美歌461番・主われを愛す」を、大阪弁で「エスさんわてを愛しはる、エスさん強いよってに、わて弱いけれど、こわいことあらへん」と歌うのも、賛美歌とはいえ、イエスを身近にたぐり寄せる努力です。
「敵(かだギ)だどもどごまでも大事(でァじ)にし続げろ」(マタイ5・44、ケセン語訳「敵を愛せよ」)