無残な十字架、シンプルな十字架

shirasagikara2012-02-13

1月23日のブログで、渡部良三さんの「中国八路軍捕虜虐殺拒否」のことを書いたが、そのとき、ふと思ったのが、キリストの十字架の死だ。それは両手両足を十字架に釘づけし、天空にさらして出血多量と脱水症状で、じょじょに失血死させる残酷なローマの刑罰だ。しかし残虐という点では、十字架より捕虜虐殺のほうがむごい。中国共産軍捕虜刺殺は、48人の日本軍新兵に捕虜5人を殺させている。1人の捕虜を9人か10人の日本兵が刺突した。
さて、十字架刑は残酷だが、イエスの死の意味は肉体の苦痛にはない。そのため聖書は福音書で「彼らはイエスを十字架につけ」と、釘打ちや天空での肉の苦痛を1字もしるさない。
「罪なきイエス・キリストが、木の十字架に釘づけられ、罪そのものとなりたまい、『わが神、わが神、なぜわれを、捨てたまいしか』と叫んだあと、『一切完了』とつぶやきて、死なれたそのとき神殿の、幕はふたつにぶっちぎれ、罪あるものがそのままに、罪なきものとみなされる、イエスの救いが成就した」のだ(月曜ブログ「福音口上書」11年9月12日)。イエスの十字架の意味はここにある。
教会では、その会堂に十字架を掲げる。ところが初期ビザンチン教会のモザイク画やイコン(板絵)のキリストは、目を大きく開き、明るいキリストだ。肉体の苦痛を表わさない(写真はアヤソフィア伽藍の壁画)。それがカトリックになると、キリストは十字架の横木に両手でぶら下がり、イバラの冠で顔に血を流し肉体の苦痛を強調する無残な姿が多くなる。これはいかがか。
エスの十字架の意味が肉体の苦痛にないとすれば、シンボルとしての十字架のほうが深い意味を持つ。女性が胸にそのシンプルな十字架を下げるのはうるわしい。クリスチャンであろうと、なかろうと。
「わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(?コリント1・23)