信仰のやせがまん

shirasagikara2012-03-18

人間「がまん」が大切です。幕末開港の長崎で、万という数で出てきた「かくれ切支丹」(カトリック教徒)の扱いに困った幕府は、西国34藩に3394人を預けました。土佐藩の拷問部屋で「母ちゃん座りたいよ」と、子どもでも狭さをがまんしている姿に感動した片岡健吉という青年がクリスチャンになりました(のち衆議院議長)。津和野藩に預けられた信徒153名ががまんした拷問部屋も、いま駅裏の山に残っています。
しかし「やせがまん」はいけません。それは平気でないのに平気らしく振る舞い、自分を自分以上に見せる「ウソの姿」だからです。キリスト信仰も「がまんする、耐える、忍ぶ」ことは大事ですが、「信仰のやせがまん」はいけません。
いちばん悪いのが「やせがまんの笑顔」です。「きょうは礼拝の朝ですから、にっこり笑いましょう」なんて「教会週報」に印刷している教会があると聞き、たまげました。礼拝には、うれしくてやって来る人もいれば、悲しくて来る方もいます。うれしい人は、にこにこすればいい。悲しい方は悲しい顔でいい。むりに笑顔の必要はありません。
むりににこにこするのは、セールスマンや、窓口の銀行員とか、デパートの「笑顔訓練」を受けた店員です。いつも接客のため笑顔でいる人は、帰宅すると案外無表情になるといいます。「笑顔疲れ」するからです。
エホバの証人」という、キリスト教の異端にはまった方々は、1年間、家庭訪問伝道しないと洗礼も受けられません。そのさい「笑顔訓練」を受けます。しかし、それは「やせがまんの笑顔」ですから、「わたしはイエスさまを知って、ほんとうにうれしいの」といわれる「本物の笑顔」に出会うと、いちばん「参る」そうです。「エホバの証人」を脱会された方から聞きました。
キリスト信仰は、ごしごしこすっても、メッキなどない、いぶし銀のような、無垢の泣き笑いがいいですね。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12・15) <写真は庭のクリスマス・ローズ>