ひとつ屋根に70名の家庭集会

shirasagikara2012-04-09

招かれて聖書の話にうかがった家は、大きな玄関を入ると正面が階段。右手にピアノがある応接間、左が和室の居間らしく、その奥に食堂が見えた。応接間には25人分ほどのソファや椅子が用意されている。最初わたしは、この部屋だけで集会するものと思っていた。ところが、わたしの隣りに司会者がおられ、その隣りに若い方がパソコンを見つめて、「あ、あ、2階聞こえますか」と言うと「はい、2階聞こえます」の声。「あ、あ、食堂聞こえますか」「はい、聞こえます」の返事。ここでは、応接間に入りきれない方々を、居間、食堂、2階の各部屋に分散して、顔は見えなくても声は聞こえる合同の集会なのだ。遅れて来た方たちは、応接間に座布団ですわった。
これまでも、名古屋や岡崎の家庭集会で、3部屋ぶち抜きで50人というのはあったが、その日は70名が集められたという。しかもそのほかに、日本各地の小さい集会と(スカイプ方式は、無料だが不安定なので、シスコ社の「web EX」という会議方式を使い)、北海道から沖縄まで同時にわたしの声が届いたという。その上、日曜日の礼拝は、さらに世界各地の日本人集会と、この「web EX」会議方式で、時差はあるものの同時刻に礼拝集会をつづけていると聞いて驚いた。
原始キリスト教会の、プリスカとアキラの「家の教会」も、きっとこのように、喜び集まる人々で、あふれ返ったにちがいない(ローマ16・3)。人は建物に集まるのではない。キリストに引きつけられるのだ。福音を聴きたいのだ。罪ある者を、罪あるままに、罪なき者とされたイエスの慰めの福音が聴きたいのだ。この世の話はどこでも聞かれる。しかし、そこでしか聴かれぬ福音に耳を傾けたいのだ。福音が語られるところ、人は千里の道を遠しとせず集まる。しかし今は千里の隔てを瞬時につなぐインターネットがある。87歳のわたしが居ながら伝道文書が書けるのも、そのおかげだ。いい時代だ。 <写真は庭の蕗のとう>
「アクラとプリスカとその家の教会から、主にあって心からよろしく」(1コリント16・19、口語訳)