「平凡をもって貴し」となす

shirasagikara2012-04-16

朝日新聞」は4月12日(木)夕刊で、9日付け夕刊に関西電力関係記事に誤報があったと謝罪した。テレビや新聞は、日本や世界の出来事を報道する。その報道は事実を伝えようと努力する。しかし、ときには誤報もあるし、その事実にも二つの問題がある。ひとつは公平な報道といいながら、記者やデスクの主観がはいること。もう一つは、事件性がないと面白くないから、平凡なことは無視されるということだ。
むかし国会議員相手に仕事をしていたころ、議員会館のその部屋に呼ばれて、議員から当時の進歩的文化人と言われた学者、評論家100名ばかりのリストをわたされた。そして、このうちだれが左翼か、最左翼か、中間かマークしてくれといわれた。わたしは「立場上できません」と辞退し上司に報告して了承を得た。
人を左右に色分けすることは、自分自身が計られることだ。「この方は左翼でない」といえば、わたし自身左がかっていると見られ。「この方は右です」といえば、わたし自身左の立場になる。新聞も公正な報道といいながら、記者やデスクの主観で取材の取捨大小が異なる。
一方、家庭にしても、会社や学校にしても、主婦や、社員や、先生が、コツコツ努力を積み重ねていることは、ありふれて、平凡で、面白くも、なんともない。新聞ネタにならない。しかし毎日、社会を支えているのはこの平凡な営みだ。しかもそれが社会の営みの圧倒的な部分を占める。地震津波原発事故で、シコシコ一所懸命に努力している平凡な方たちは話題にならない。しかし平凡が日本と世界を支えている。
教会活動もその通り。牧師の説教や、奏楽者の演奏は目につくが、会計事務や、会堂の清掃、会食の準備、印刷物の発送などさまざまな雑用がわんさかある。それを何事もなかったかのように、静かに毎週つづけられる平凡な働きがあって、教会活動は進むのだ。
キリスト信徒の生活もそうだ。毎日の繰り返しの平凡のなかに、神のただならぬ恩寵を見つけるのだ。「平凡をもって貴し」としよう。
「平穏で落ち着いた生活を送る」(第1テモテ2・2) <写真は庭のモチの木の花>